種の会からのお知らせ

週刊メッセージ“ユナタンDX-7”38

〔ユナタンDX-7〕 №38
~ ごっこ遊び 劇のお稽古 想像性の行き先 ~

平成30年2月13日  片山喜章(理事長)

発表会のお稽古を眺めていると、とても不思議に思うことがあります。どうして2歳児の子どもでも舞台にあがると普段の自分ではない劇の役柄を演じることができるのでしょう。4歳児5歳児になると厳しいお稽古でも、なぜか、投げ出さないで続けます。お稽古中に笑いも生まれます。
普段、保育室で“ごっこ遊び”や“身体表現”をするときは、嬉しそうにその役になりきる子どもたちですが、それと同じ気持ちでしょうか。ぜんぜん違うと思います。一体全体、この子たちの心の中では何が起こっているのでしょう? “人間らしさ”“子どもらしさ”という保育の根幹に関わるテーマだと思います。その辺りの解釈について、今回、私なりに考えてみました。

“ままごと”なら、昔も今も子どもの“ごっこ遊び”の定番としてどこでも見られます。新生児から人は他者の振る舞いを見て、自分の中に取り込んで、マネをする。これが学習の基本だと思われます。“ままごと”は、お家の生活を思い描き(想像)ながら、それをベースに自分なりに物語を創って表現します。遊びながら頭脳をフル回転させて、話の内容をより面白い物に創りあげようとします。思い描いたことを演じて遊ぶ(創造する)ことでさらに想像力が膨らみます。
私たちも、自分の思いや考えを相手に伝えようと対話するとき、集中して熱く語り合っていると自分でも気づかなかった新たな考え方が場の空気から引き出されます。それと同じように“ごっこ遊び”では「想像」(内面活動)と「創造」(表現活動)が相乗的に作用していると感じます。

「お母さんはお出かけしますから、お利口さんにしておくんですよ」と気取ってみたり「お散らかししてはダメでしょ!」という言葉遣いに、その子の母親の口癖が乗り移ります。真剣なやり取りをすればするほど、そばで聞いている私たちは苦笑してしまいます。想像したことを言葉や身振りで表現し合うことこそ、幼児期に最もふさわしい集団教育の姿(効果)であると考えます。

35年くらい昔、私が保父さん(保育士)時代には“イヌごっこ”なるものが流行っていました。当時の私はイヌ役になり、子どもたちから可愛がられて疲れを癒していました。子どもたちも先生(私)を可愛がって悦に浸っていました。4年ほど前、その“イヌごっこ”を発見しました。1人がイヌ役で首にひもをかけられて四つん這いで進み、もう1人の子がイヌを引いていきます。最近、縄は危険だと考えて縄跳び以外は一切、自由に使わせない園が増えています(日本的安全の課題)。
その“イヌごっこ”は、ペットのように無条件に可愛がられる役と可愛がる役=可愛がられたい願望と可愛がりたい欲求の双方が1本の縄で繋がります。微笑ましく感じるところですが、なぜ、子どもたちは“イヌごっこ”をしたがるのか、そこも興味深いところです。

人間社会は競争と協力(言い方を変えると、個の利益と集団の利益の葛藤)をくりかえして発展してきました(発展と称してよいかは疑問です)。森林伐採や油田開発などの自然破壊によって、人は社会を変え、生活を一変させました。その変遷の過程で大規模な殺戮も行なわれてきました。
ある意味、たいした理由もなく束になって友達に陰湿な振る舞いをするイジメ問題も同根のように思います。およそ理性や知性では理解できないのが現実です。これも“人間らしさ”なのかもしれません。もしかして「イジメを受けてもくじけない」「イジメには加担しない」ための備えとして優しくしたり、されたりする遊び(経験)を重ねているのかもしれません。このような遊びによって人間社会が持つ残忍さに打ち克つ耐性をつけているようにも感じます。⇒もしそうなら「生きる力」を育むには、我慢の経験ではなくて想像力を駆使した面白い遊び体験が重要になります。

「そこじゃなくて、舞台のこの線の上で!」と劇のお稽古中、担任の先生から檄が飛ぶことがあります。日本の至る所でみられる光景です。普段“めだかの学校”の先生もお稽古が佳境に入ると“すずめの学校”の先生に変身してしまいます。日頃、ゴンタな子もお稽古中は思いのほか従順になります。良し悪しは別にして、2歳児、3歳児でも、なぜ、そんなふうに我慢できるのか、ほんとうに不思議です。そこが“ごっこ遊び”と大きく違うところです。先生が怖いから頑張るとか、先生に義理立てして期待に応えようとしているとも思えない理解困難なお稽古風景です。

たぶん、園全体から湧き出る“場の力”だと思います。保育者集団の強い願いがまとまって舞台の上に“形態形成場”を生み、億千万の“気合いの素粒子”が舞台の上の登場人物たちの頭や胸を突き抜けているのだと、ホンキの本気でそう考えています。そんなに遠くない時期、心理学と量子物理学が融合して(エネルギーとしての)「意識の謎」の解明に着手すると期待しています。

子どもは空想力が豊富で変身願望が強い。故に大人の横暴や困苦に耐えられると考えていました。プリキュアとか月光仮面に変身したいという願望は成長欲求の現れですから、多少の困難は乗り越えます。しかし、劇のお稽古は、そんな単純なものではないです。その役柄を演じたいという憧れと、嫌でも演じなければならない使命感が混在しているようにも見て取れます。日常生活ではまずありえない異色の葛藤を味わっています。わくわく、もやもや、ふつふつ、はらはらの体感です。

私の経験からいえば、子どものアイデアや発想を活かそうと努めるほど、見ていただく劇としては、内容も展開もだらだらしてメリハリのないものになる可能性があります。しかし当日は、はつらつとして、親に手を振ったり、アクシデントやトラブルを笑いとばしたり、少々間違えてもお構いなしに会場を笑いに誘い込む雰囲気になります。
逆に、最初から枠にはめてピシッパシッと練習して仕上げると確かに内容も展開もしまります。しかし当日は、ピリッとうまくいくこともありますが、一旦、アクシデントやトラブル等で崩れると、もうどうにも、と・ま・ら・な・い、そんな時がありました。

法人各園では、子どもとともに作り上げる劇づくりをめざして格闘?していました。それは普段の“ごっこ遊び”と舞台の上の格別なお稽古の隔たりを埋めるチャレンジでもあります。園の保育者集団が総力(創意と総意)をあげて、1つ1つの出し物に向き合えるかどうかがポイントです。保育者1人ひとりが「自分が主役」であることを自覚して実践する協同劇でもあるのです。
みなさんの園の劇は、果たしてどんな内容、どんな雰囲気になる(だった)のでしょう。