種の会からのお知らせ

週刊メッセージ“ユナタン”20(もみの木台・みやざき・世田谷はっと)

≪ユナタン:20≫ at もみの木台
~ その子のルーティンと園生活の流れ ~

平成28年7月22日  片山喜章(理事長)

にじ組(0歳児1歳児)の「お昼寝」から「おやつの時間」までの出来事です。
園生活において、この時間は、もっともあわただしくなります。幼児の場合、午睡して、決まった時間が来たら、一斉に起床して、ベッドの片づけをはじめ、おやつの準備に取り掛かります。
しかし、乳児の場合は、できる限り、ゆったりした時間の流れの中で生活の「転換」に努めています。その子のリズムや月齢差も配慮して、目覚めた子どもから自分で起きて、「遊びのテーブル」で、好きな絵本を見たり、おもちゃを手にしたりして、それから「おやつ席」に移動するのが基本的な生活の流れです。ある日のこと、Aくんは、なかなか起きてこようとしません。

子どもたちは次々に「起床」し、ほとんどのベッドが片付けられた頃、Aくん(1歳児)は、ようやく起きてきました。このとき、すでに「オムツ替え」を済ませた多くの子どもは、おやつをいただくために「おやつ席」につき、保育者に手伝ってもらって、エプロンを着け始めていました。
保育室全体の雰囲気は、「おやつの時間」がはじまろうとしている感じです。そこに、Aくんもやってきて、「おやつ席」ではなくて「遊びのテーブル」に向かって座ります。手には、絵本とおもちゃを1つずつ持っていました。(おやつなのに?)そこで担任は声をかけました。

「もうすぐおやつが来るから、絵本置いてきてくれるかな」と諭すように言いました。
ところが、Aくんは、何も答えないで、ただ笑顔を浮かべながら、絵本とおもちゃを持って「遊びテーブル」に座ったままでした。「なんだろう、この笑顔は?」「他のみんなは、おやつをいただくために、エプロンをつけてもらおうとしているのに?」「今から絵本?」「なんで、おやつ席に座らないの?」 そこで、担任は、Aくんの心に分け入って“気持ち”を読み解こうとします。

この笑顔は、明らかに『これから楽しい事をするんだ』という感じに見えました。「Aくんは、今から、おやつではなくて、早く起きた友達と同じように、絵本を見ようとしているでは…。確かに、Aくんが、座っているテーブルは、絵本コーナーのすぐ近くにあって、先ほどまで、他の子どもたちが、イスにすわって絵本を見ていたテーブルでした。そこで、担任は「Aくん、絵本読みたかったの?」と尋ねると、「うん」とうなずきました。「じゃ、エプロンは、読み終るまで待ってるね」と声をかけると、おもちゃを横に置いて、勢いよく絵本のページをめくり始めたのでした。
担任が、すべての子どもにおやつを配り終えた頃、Aくんも絵本を読み終えて、本棚とおもちゃ棚にそれぞれ戻して、席に戻ってきました。座るとすぐに「え・ぷ・ろ・ん!」と声をかけてきて、みんなから少し遅れて、おやつを食べ始めたのでした。
同じ日の午前中、園庭で遊んでいたにじ組の子どもたちが、たくさん汗をかいたので、シャワーを浴びてから入室することにしました。その頃、ずっと、涼しい日が続いていたので、シャワーを浴びるのは久しぶりだったため、水を出すと、水と同じくらいの勢いで、にじ組の子どもたちは、駆け寄って来ました。あわてて担任は「お洋服、脱いだ子から順番にしようね」と、制止しながら、1人ずつ脱衣のお手伝いをしました。ハダカンボになった子どもたちは、「シャワーを浴びる子」、「手を伸ばして水の感触を味わう子」、「水に触れて“きゃっ”と悲鳴のような歓声をあげて、その勢いで園庭を駆けまわる子」、個々の子どもがまるで水飛沫のように、飛び跳ねていました。

同じクラスのBちゃん(1歳児)だけ、靴も服も脱ごうとはせず、はしゃぎまわる子どもたちのなかで、ポツン…。(水遊びは楽しいはずなのに?)そこで担任は、あれこれと考えてみました。
シャワーをしている友達の様子を見ているのか、と言えば、それほどでもなく、Bちゃん自身、シャワーの水に触れたいのか、嫌なのか、それも定かではなくて、そこで担任は、思考をジャンプさせて、日頃の“Bちゃんらしさ”を思い描いてみました。

Bちゃんは、今年度、入園した子ですが、「生活の流れ」をよく理解している子です。「ご飯」のときは、さっさと準備して、友達にエプロンをつけてあげる場面もあるくらいです。そして、外遊びをした後は、靴を脱いで服を脱いで着て、入室して、ご飯の用意をいち早くします。
そんなBちゃんにとって、もしかして、≪みんなが靴を脱げば、お部屋にはいって、ご飯の用意をするんじゃないの? みんな、何をしているの? お部屋に入らなくていいのかな?≫と心の中でつぶやいているように担任は感じて、声をかけてみました。

「Bちゃん、お部屋に入る前に、シャワーしたらどうかなあ。それからご飯にしよう。だから、いま、お洋服、脱いでおいで」と誘うと、それまで戸惑っていた姿が一変し、すっと、テラスに行って、そこにいた別の保育者の力を借りることなく、自分で靴と靴下を脱いで、ズボンも脱いで、
シャワーのところまで、戻ってきました。そして、Tシャツを脱ぐのを担任に手伝ってもらって、シャワーを楽しんで、入室し、いつもの流れの中で「ご飯」をいただくことができました。

「起きて、絵本を持って見て、それからおやつにする」(Aくん)。
「外で遊んで、靴を脱いで靴下を脱げば入室し食事をする」(Bちゃん)。
1歳児のAくんとBちゃんに共通することがあります。それは、園生活の中で身に着けたルーティンを自分のモノにしながら生活している姿です。保育者の側も、園生活はできるだけ決まった流れのなかで過ごせるように心がけます。それが、子どもの自立を促すと考えるからです。そういう意味では、2人の動きは、生活の流れに沿おうとしたものでした。けれども、園生活は、状況によって変わるものです。変わる際には、子どもにきちんと説明することを怠ってはならない、保育者がそんな学びを得た1日でした。 ※「ユナタン」は8月お休みです。 【資料提供:上遠野】

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≪ユナタン:20≫ at みやざき
~ わくわくドキドキすっきり夏祭り ~

平成28年7月25日  片山喜章(理事長)

 7月の園だよりで紹介された、2歳児もも・れもん組の「☆タンポ☆」の活動。そこで、子どもたちは「色の混ざり」「色の滲み」「色の不思議」を味わいました。“とんとん”とタンポをたたく心地よさと「色」の魅力を味わっていると“ドンドン”と下から大きな音が聞こえます。

太鼓の音でした。りんご組の子どもたちの練習がはじまりまったのです。園全体に高揚感が湧き出ます。タンポを持つ手が止まる子、“ドンドン”の音色に“とんとん”と自分が選んだ色でタンポをたたいてシンクロさせようとする子、太鼓の音に自然に笑いがでる子、クラス全体にりんご組さんへの“憧れ”が、ひろがります。何も気づかず黙々とタンポで色体験する子もいました。

憧れを抱くことは、「生きる意欲」を自分自身で育んでいることだと思います。今いるほとんどすべてのスター(選手、歌手、俳優)は、幼少期や学童期にテレビなどを通して、当時のスターへの強い憧れが動機になって、努力を重ね、こんにちの地位を得たのだろうと思われます。

しっかり練習して本番を迎えた5歳児りんご組の子どもたちも、昨年、ぶどう組(一昨年みかん組)のときの“憧れ”が、意欲の源泉になっていると思われます。ということは、子どもたちは、直接、指導を受ける以外に、この園の保育文化の影響を受けて、それを励みに生活していると言っても良いと思います。ですから、「コーナーの日」の異年齢保育の価値と同等に、クラス別の保育(学年別の活動)も「園の保育文化の継承」「憧れの体験」という観点からも大切にしていきたいと、私たちは考えています。練習の辛さとは…憧れや園文化と相対的に捉える必要を感じます。

しかしながら、保育の中に「太鼓」を取り入れることは、「良くない」と評するインテリ園長や学者がいるのも事実です。いわゆる“ヤラセ”であるという思考です。まだまだ保育の世界には、短絡思考する方が多いのです(ウンザリしています)。太鼓=○か×か、ということではなくて、≪指導方法≫の“良し悪し”とその活動が、当事者や年少者の“憧れ”の対象になっているか、否かによって、教育効果が大きく異なる、と法人全園で確認しています。お兄さん、お姉さんの凛々しい姿に“憧れ”をもつ経験も、ある意味で、間接的な≪練習方法≫である、と思います。

一方、5歳児りんご組の子どもたちも、自分たちが「憧れの対象」になっていることを薄っすら意識していると思われます。“憧れ”を受けているから、日常のいろんな場面で、ごく自然に幼い子をいたわり、譲ってあげる気持ちが引き出される。「太鼓」には、そんな効果もあるでしょう。
夏祭りを控えてりんご組の子どもたちには、恒例のお役目があります。2歳児もも・れもん組の子どもたちに「盆踊り」を伝授することです。毎日、日替わりでお当番グループの子が5~6名、2歳児クラスを訪問し、そして見本を披露します。今年は「もったいないばあさん音頭🎶」「月夜のぽんちゃらりん♫」に加えて新しく「きのこ音頭♬」が加わります。園だより『ジャンプ』に記載されているように、1週間、毎日、「映像」を見て覚えました。もも・れもん組の年下のお客さんに観せることは、「夏祭り」で大人のお客さんに観ていただく緊張とは異なる緊張と気合いが入ります。このような体験もまた、年長児の教育・保育としては、有意義だと思われます。

ご存知のように法人全体の≪練習方法≫は“見て覚える”です。運動会のバルーン演技も見本を見て覚えて、自分たちの練習中の動き(出来栄え)を見て、話しあって、自分たちで改善していくという≪方法≫を用います。この方法で盆踊りを覚えたりんご組のお兄さんお姉さんが「モデル」となり、もも・れもん組の子どもたちは、生で観て覚えます。これは「映像」とちがって特等席で「ライブ」を見ているのと同じです。まさに「2歳児は、わくわく、5歳児は、ドキドキ」です。

しかも、クラスに入って、始める前に、りんご組の子どもたちは自己紹介をていねいにします。その瞬間、わくわくもドキドキも1つになって、クラス内の空気がピーンと張り詰めます。2歳児と5歳児の特殊な異年齢の関係ならではの不思議な世界が生れます。“憧れのまなざし”、そのまなざしを浴びる“面映ゆさ”、そのなかで「盆踊り」の曲が流れ、臆することなく彼らは踊ります。
もも・れもん組の子どものなかには、はじめ“ぽか~ん”とみているだけの姿もみられます。
が、すぐに不思議な世界の魔力によって、手拍子を打ったり、いっしょに踊りだしたり、興味も踊ります。なかには歌を口ずさむ子も現れます。そんなもも・れもん組の子どもの姿が、りんご組の子どもたちに不思議な達成感をあたえ、さらなる意欲を促します。このように、みやざき保育園では、本番前に2歳児と5歳児の異年齢交流を通したスペシャルドラマが展開されるのです。

そして、本番当日、凛々しく太鼓をたたく姿に多くの人たちが感激しました。事後のアンケートで、りんご組のある保護者が『小さな子の指導に出かけたことを、わが子はとてもうれしいと言っていた』と喜んでくださり、『本番の帰り道、“ぼく、今日も泣いちゃった”というので、何か嫌な事でもあったのかと、尋ねると、自分の番の1つ前で太鼓をたたく友達の姿に“感涙した”と言うのです」と記載されていました。(なんて、感性豊かな子なのでしょう!)

「異年齢保育」と言えば、「コーナーやゾーン」のなかで、個々の子が、自分が遊び込んだ結果、異年齢で交わっていた、というケースが一般的です。しかし、このような「設定」による異年齢交流がもたらす豊かさについても、やり過ぎはダメですが、一考する価値はあると思います。
※8月のユナタンは休刊です。【資料:「アンケート」園だより7月号「てくてく」「ジャンプ」】

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≪ユナタン:20≫ at 世田谷はっと
~ 「てっちゃん」 ~

平成28年7月19日  片山喜章(理事長)

 朝、「積み木&キシャコーナー」には、3歳児おはな組の“てっちゃん(電車大好きな子)”が常時、4、5人います。木製のキシャやセンロ(線路)は、手で持つのに丁度よいサイズで、木の質感も心地良いのか、登園して、即、キシャコーナーで遊びだす子がいます。友達と会話をしているときも、その手には、キシャや線路が握りしめられている場合があります。その姿を見ていると、子どもに限らず、人は、何かを手に持つことで、気持ちが安定し、落ち着くのだと感じます。それが物欲、支配欲を生み出し拡大させるのかな、とも解釈します。手で物を巧みに扱えるのは、人とサルくらいです。サルの社会も上下関係や支配構造がはっきりしています。

そして、昨今、人は、手全体を使って物をつくらないで(農業でさえ機械化)、指先でボタン操作をしたり、パネルを撫でたり、人間らしくない生活をしています。それが、昔から続いてきた支配構造に適応しづらい現代人(現代社会)を生み出しているのでは?と、まあ、思考が、地上を走る電車ではなくて、ヒコーキのように飛んでしまいました。(まったくの独創です)

少し前まで子どもたちは、ひたすらつなげて、つなげて長い線路を作り、キシャもつないで、つないで走らせることだけを楽しんでいました。長さを楽しんでいます。線路は“終わりのないSEKAI”のように拡がっていきます。時々、つなげる手をとめて、立ち上がって“全体”を眺める子どもの姿を目にします。「何を想っているのかな~」と、ふと“疑問”が通過します。
もしかして“SEKAI NO HIROGARI”を実感しているのではないでしょうか?

木製の線路は様々な形をしています。中には、平面ではない急勾配の坂のようにせり上がったパーツもあります。平面の線路がなければ、距離を伸ばすためにこのパーツを使って拡げます。
ですから、葉脈のように線路は方々に拡がります。登り坂を使ったために、そこで行き止まりという路線も現れます。おはな組の“てっちゃん”たちは周回することを意識しないで、ただ走らせて行き止まったら戻ります。それ以上に、キシャで楽しむ子は、線路同様、長く長く連結させることに集中する姿が観てとれました(私なんか、今でも貨物列車が通ると首を振って貨車の数を数えて、50両を越えたりすると、嬉しくて、ひとり、駅の端っこで大騒ぎしています)。

「つなげる」(つながる)意味について考えさせられました。距離が伸びたのは結果であり、行き止まりになっても、くじけずに線路の凸凹をはめ込んで、つなげようとする彼らの行為は、人がつながりを求め、社会を築き、発展させようとする営みと相似形だと感じました。
最近、このコーナーに集まるおはな組の“てっちゃん”の人数が少し減ってきたので、担任の先生は、つなげるだけの線路ではなく、坂で高さを設けたり、積み木を使って高さを支えたり、“てっちゃん”の仲間入りをして“おもしろさ”が増すようにかかわりました。
(すべて子ども任せにしないで、仕掛けをつくるのが「コーナーでの保育者の役割」ですから…)

「キシャセット」には、高架にするための“支柱”がパーツに少量、含まれています。登り坂があって、そこから支柱に支えられた平面線路をつなげる、そして下り坂。そうして遊ぶのがふつうだと考えられます。担任も、しばらくそんな感じで誘導していましたが、そうはいかないところが子どもらしさです。登り坂をつなげて平面で走行すると、さらにそこから登るために、登り坂のパーツを支柱で支え、「ニ段坂」にしようとします。これは、かなり困難な作業ですが、この作業は、すぐに、おはな組の“てっちゃん”の共通の興味になりました。すると、おのずと友達と協力するという精神が動き出して、つながります。「すごい!」担任は驚きます。大人でも困難な作業を子どもたちは、協力しながらどんどん作りあげるようになったのです。

「共通の目的(興味・関心)」に「困難」が加わると人間は、協力するのだと感じました。
災害復興は、多彩な協力の精神が重なって成果を出します。今、日本が、世界が、たくさんの「困難」(貧困、人権、差別、テロ、銃規制等)を抱えていますが、格差の拡がりのなかで対応策を協議する以前に、私たちは、人類として真の「共通の目的(興味・関心)」を持ちえているか、この点を問い直さないと、世界は、光と闇に一層、分断されていくように思われます。

日に日にクリエーターになっていく“てっちゃん”は、ベンチ(縦15cm、横1m)を裏返して鉄橋に見立てたり、高架を作ったり、創意を発揮して、線路を伸ばすだけでなく風景もつくります。特にベンチを裏返して作った高架は、その後、どんどん高さを増して、その分不安定になります。バランスを失い、倒れることが続くと、段ボール箱を持ってきて補修したり、積み木をうまく使って支えにしたりしていました。同時に、運転操作もうまくなりました。
かつて、つなげることだけで満足していた“てっちゃん”は、もうこの時、鉄道の建設と運転手になって走らせる、その双方が興味の対象になっていたのです。

急勾配の坂を登らせるとき、キシャを押す手の力を調節しないと倒れます。倒れないように、壊さないように気を使う子どもたちの姿に感動します。そして、先月の「カプラ」同様、壊れても修復させる技術を会得していました。恐るべし能力。やはり、人間は、根本的にモノをつくる動物です。失敗や困難に出会ったとき、協力という武器で戦います。その戦いを通して、個の能力や腕前を向上させていくのだとサトリました。そして今、私自身、自分が“てっちゃん(哲学の哲ちゃん)”であることに気づきました。(8月のユナタンはお休みです) 【資料提供:足立千恵】