種の会からのお知らせ

週刊メッセージ“ユナタン”14ー③

ユナタン:14≫ at もみの木台保育園

~ “マイペース”って言うけれど… ~

平成28年4月22日:片山喜章(理事長)

5歳児ひかり組のAちゃんは、普段から、どちらかというと自分のペースを崩さない、いわゆるマイペースなタイプの子どもです。「お片づけの時間」になっても、“いま、そこにある遊び”に没頭して、なかなか片づけようとはしません。友達から「片づけてよ!」と言われても「今、やろうと思っているのに!」とギャクギレ?しているような強い口調で返事をすることがよくあります。戸外に居ても入室するのは、いつもマイペースで、たいてい最後になってしまいます。

 

みなさんはこのような子どもの姿をどう評価しますか?

きっと、どこの家庭でも少なからず起こりうる光景です。私や法人内の年配の管理職(もみの木台ではありません)たちは、最近、“さっと、お片付けする子どもって、遊びに没頭できてないよね”“片づけなんて大人がしてもよいよね”“一生、片づけが苦手でも人生、うまくやっている人もいるよね”と“年寄り特有の寛容さ”が保育観になりつつあります。実際、保育の世界でも「片づけ」については、有識者や論客がさまざまに語りますが、見解は虹色です。

 

「自分が困って、必要性を実感したら片づけるようになる」「片付けよりも遊びや探究に没頭する方が人として豊かである」「その子(人)の気質なので教育として扱えない」など、様々な声を見聞きします。チナミに私個人は、幼少期から今現在に至るまで、片付けがスコブルできないヒトで、いつも散らかしっぱなしです。周囲の人たちも自分自身も、ほんとうに嫌気がさして困惑しきっているのが現状です。ですから、Aちゃんの気持ちはよくわかる一方で(そんなヒトにならないために)物をさっさと片付けるチカラ(習慣)を身につけてほしいとも思います。

 

そんなこんな話をしていた土曜日(9日)、1歳~5歳まで全員で14名の子どもたちが登園していました。2歳児から5歳児まで11名の子どもたちは園庭で遊んでいた時のことです。

「入室の時間」になると2歳児クラスの子どもが「まだ入りたくない!」と反抗し、一向に片づけようとせず、3名の2歳児の子は、園庭のあちこちで一層、激しく?遊びだしたのです。

先生が言い聞かせるほどに「入りたくない!」の声は大きくなります。先生は駆け寄って個々に片付けを諭し、入室を促しました。が、逆に“悪ふざけ”がはじまり、効き目はありません。

 

そして、3人の子は、1階テラスの隅に集まって、外遊び用のフープが掛けてあるところに隠れました。たぶん、“かくれんぼ気分”で先生をからかっているのだと思います。

すると、そこへ、あのAちゃんが、やってきて、しばらく3人の顔をじっと睨んでいました。

Aちゃんは、3人の2歳児を、しばらくの間、怖い顔をしてまま睨んだかと思うと、フープに手をかけて・・・ひっぱたこうとしたような・・・、けれども、すぐに手を放しました。

Aちゃんなりにあれこれと考えている様子が窺えます。そして行動にでます。

まず、ひとりの子どもの手を取って、「もうお部屋だよ!」と強い口調で言い放って、後は、無言で下駄箱のあるところまで手を引いて進んで行きました。入室を促すAちゃんは、2歳児の子にとって、先生より怖い説得力のある存在になりました。普段“周りは関係ない”とマイペースだと思われていたAちゃんが、年下の友達の手を引いて入室を促したのは、クール!でした。

 

「園庭には10人あまりの子ども」。「保育者が1人で入室を促している」。「けれども入室しない子どもが3人以上いる」。この状況を見ていたAちゃんは、Aちゃんなりのペースで「なんとかせにゃあかん」と感じ取ったのでしょう。主任の上遠野さんは「きっと“自分はこの中で1番年上のひかり組だから手伝ってあげよう!”という気持ちと、土曜日一緒に過ごしていても、今まで関わることが、さほど多くなかった2歳児そら組の子どもたちに対して、“どう接したらいいのかわからない”、と葛藤し戸惑っていたように思う」と振り返っています。

きつい口調で言うだけでは、自分より小さい子は聞き入れてくれないことくらい、日頃、3歳児以上の異年齢で生活しているので、実感として理解できていると思います。けれども、優しい言葉をかける場面でないこともわかっていたので、ただ“無言”で手をひく…というかかわりに至ったのだと思われます。これが“Aちゃんのペース”“Aちゃんらしさ”なのでしょう。

 

けれども、この時、外に居る子どもがすべて同じクラス(学年)だったら、どうでしょう。葛藤することなく、ケンカになってしまうか、あるいは、無関心でいたかもしれません。

ここに異年齢で生活することの利点を見出すことができます。「入室する意味(食事の用意)」を理解していて、「先生が困っている」「先生を困らせているのは、2歳児の年下の子どもたちである」「彼らなら自分のペースで諭すことができる」きっとこのような気持ちがはたらいて、Aちゃんの中の正義感や規範意識を刺激したのだと推察できると思います。2歳児の子どもたちの振る舞いが、Aちゃんの“マイペース”を変容させた、と表現して良いと思います。

 

私たち大人は、「あの子(人)は、マイペース」と言うとき、どちらかと言えば、ネガティブな評価をしていることが多いと思われます(イタリアやフランスでは、歓迎されます)。そのあたりの事は、教育の根幹に関わることですから、折に触れ、洞察していきたいと思います。

 

その後、Aちゃんのクールな姿を見ていたひかり組の他の2名の子ども応援にかけつけ、全員がすぐに入室することができました。その子たちも、Aちゃんには、日頃「片付けてよ!」と怒りをぶつけても、2歳児の子どもには厳しくやわらかく接していました。(資料提供:上遠野)

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ユナタン:14≫ at 世田谷はっと保育園

~ キラキラの木の根っこ ~

                      平成28年4月18日:片山喜章(理事長)

今年度、園だよりに毎月、「キラキラのページ」が登場します。4月号には連載に至った経緯が記載されています。昨年度、幼児クラスに展示されていた「キラキラの木」がきっかけでした。 

4月号の“キラキラエピソード”は“キラキラ”というよりも一瞬、輝いて消えるよくある保育場面です。しかし“キラキラ”を取り上げる行為が「教育」として重要であると考えています。

私たちは、映画やTVで“大きな感動”を呼ぶドラマや実話にずいぶん慣れ親しんでいます。効果的な編集や若干の作為があったとしても、多くの人たちは感動にひたり、感涙にいたることがしばしばです。しかし、お家の中で、くつろいだ雰囲気のままで「TV画面」に流れる大きな「感動物語」を味わい続けると、いつしか“感動慣れ”し、日常の中で起こる小さな“キラキラ”に対して疎くなり、感性の根っこが鈍麻するのではないか、と小さな懸念を抱いています。

ですから、保育者集団も子ども集団も保護者の皆さんもお互いに小さな「キラキラ(良いとこ)」を鋭く感じ取って表現してほしいと思います。そんな日常生活は豊かです。

昨年度(今年3月)、はっとこども園(神戸)は、「保育要録」を送付する際(卒園する子に対して「健康」「社会」「対人関係」など領域ごとに“この子は、こんな姿でした”という事柄を記述して、進学する小学校に送る文書)、その内容を“キラキラ”だけで埋め尽くしたのです。

「キラキラの内容」「日付」「キラキラを記入した保育者」を5歳児時代の1年分だけ1人ずつ、A4、4枚程度にまとめて卒園児が通う小学校に送付しました。受け取った小学校側も、対応に困るほど稀有な「保育要録」だったと思います。さらに、私たちは、『日本中の「保育要録」が“キラキラエピソード”を綴ったモノに改めてほしい、そしたら子どもはもっと良く育つ』そんな思いを込めて「ぜひ、この続きを学校でも書いてくださいネッ」と直接、お願いもしました。

5歳児の子の“キラキラ”を書くのは、担任だけでなく、乳児クラスや調理室を含めた保育者集団でした。「みんなでみんなをみる園づくり」という運営方針に沿うものになりました。

毎月、「どの先生」が、「何枚の“キラキラシート”」を書いたのか、集計し見える化にして、保育者の意欲を促します。乳幼児すべての子どもが“キラキラ”の対象ですから、多くの子どもの“キラキラエピソード”が、毎日、書き溜められ、毎月、総数は数百枚に及びます。このような取り組みを、私たちは単なる「記録」ではなくて有効性の高い「教育手段」であると捉えています。世田谷はっと保育園でも“キラキラシート”は日常的によく書かれて機能しています。

それは保育者の資質向上策であり、良い教育・保育の“根っこ”の取り組みだと考えます。

その一方で、「キラキラシート」を「教育手段」って言うのは、ちょっと大袈裟じゃないの、と考える人たちが(日本の)世の中には、いっぱい、いっぱいいると推察できます。

「教育の成果」は、個人の中の「知識や情報の量」ではかられると解釈している人たちが、日本や東アジアにはたくさんいます。また「人格教育」と言えば、倫理や道徳を思い描いて、あるべき“人の道”を教え込むことだとイメージしてしまいます。けれども、実際、「やさしくなりなさい」「思いやりなさい」と諭されても、早々、そんな気になれないのが“人の心”です。子どもたちは純粋ですからその場では殊勝に“わかったつもり”になりますが、学童後期になるとウザイと感じ、反抗心が芽生えて、表に裏に歪んだ行動に現れると言ってよいと思います。

なぜ、「教育手段」といえるのでしょう。保育者自身が豊かになる取り組みでもあるからです。絶えず自己の内を見つめ、人格や感性を磨いていくことは、保育者の大きな努めです。個々の保育者が、日々の保育の中で子どもの“キラキラ”を“シート”に書き記す行為のなかで「内省力」や「気づき」、「寛容さ」や「子どもの行動の意味を理解する力」が磨かれると信じています。

一朝一夕に行かないにしても日々の積み重ねのなかで、徐々に磨かれることが期待できます。子どもたちにも「友達の良いとこ探しで、その子自身が豊かになる」ことを期待します。

昨年度、子どもどうしでも「キラキラ」のやり取りがありました(“キラキラの木”が茂りました)。友達の良いところをみんなの前で発言する子どもの眼は、輝いていました。友達から良い事を言われた子どもは、表情が輝いていました。友達から「褒められる事で育つ」、友達の良いところを「褒める事で育つ」。この両輪が機能して、様々な「教育」が可能になると考えます。

昨年度(今年2月)のそら組の発表会のお稽古の最終場面を見て、感心した事があります。

クラスを2つのグループに分けて2つの劇が演じられました。様々な理由があって、本番前日まで変更、変更、変更のくり返しでした。「クラスのすべての子どもがよくついてくるな」「誰もダレたり投げ出したりしないで、厳しい試練によく耐えているな」と傍観していた私は、正直、子どもたちに畏敬の念さえ抱くほどでした。担任に創意があって、子どもを信じているから変更(改良)が重なっても大丈夫でした。終盤は、1つのグループのお稽古(劇)をもう1つのグループが“観客”になってみるのが常でした。時々、私もビビるほど大きなカミナリが落ちます。

けれども、毎回、事後、必ず“観客”に“キラキラ”について発言を求めます。「○○くんのこの台詞がかっこいい」「○○ちゃんのこの動きがすばらしかった」、観客は、次々に挙手して褒めました。お稽古特有の重い空気が暖かな風に変わります。子どもなりに「お稽古する友達の辛さ」を感じるから懸命に褒めるのかもしれない。自分が演じる時、事後、“観客(友達)”から、「褒められるからがんばれる」。胸が熱くなったこの場面において、演技ではない本物の「思いやり」と「やさしさ」が“キラキラの木”の根っこで広がっていると実感できた一幕でした。