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片山喜章のページ ~思い・願い・提言~
2018年5月23日 水曜日

【ユナタン4-44】
~ 思いやる気持ちはどこから? ~

2018年5月23日  片山喜章(理事長)

前回配布(5月9日)の【ユナタン3】では、0歳児のミイと1歳児のケイが朝の室内遊びの中で玩具のポットを取り合う場面を紹介しました。自分も相手も共に譲れない葛藤場面で“保育者の包みこみ”によって双方が“葛藤状態”を和らげ、最後に譲ったケイが担任の胸のなかで興奮を鎮めて納得の表情を現わしました。
それを0歳児(満1歳)なりに道徳心を感得したように思いました。子どもどうしがトラブルになった時、自分の気持ちを伝えながら相手の気持ちも理解して双方が解決に向かおうとする空気の醸成、ここが保育の最も難しいところだと思います。

子どもに限らず人はトラブルに出遭うとカッとなって心が荒れます。荒れた気持ちは、それを理解して落ち着かせてくれる誰か(何か)が居なければ回復しません。決まりやルールを言葉で教えられだけでは感得には至らないどころか、教えた人との関係性によっては、善悪をわかっていてもさらなるトラブルを引き起こすこともありえます。現代人の感受性はよりデリケートになり、その傾向は顕著になった。そんな社会観、人間観、子ども観、教育観、保育観を抱いているところです。
今回紹介するのは、今年2月末の1歳児の姿です。どうしてこのような“思いやりのあるような行動”が現れ出たのか、私なりに解釈してみました。

1歳児クラスのお部屋の隅から笑い声が聞こえてきます。ミキ、ユミ、コウジ(いずれも仮名)の3人が“ままごと”をしていました。3人は“しゃもじ”を手にしておしゃべりしながら笑っていました。楽し気な様子に気づいたヒトシ(仮名)は“ままごとコーナー”の“しゃもじ入れ”をのぞきました。自分も仲間に入れてもらいたかったのです。ところが、“しゃもじ入れ”の中は空っぽ。「なぁーい」と声をあげたヒトシは、3人に向かって「かしてー」と訴えます。コウジとユミはそれを聞いて「あかん」と言って走りだしました。「かしてー」とヒトシは2人を追いかけます。2人とも「あかん…、あかん‥」と笑いながらまるで追いかけられることを楽しんでいるようでした。ヒトシは今にも泣きだしそう。その様子を見ていたのは担任と、もう1人、ミキでした。

担任はすぐにヒトシの傍へ行って「ヒトシくん、貸してって上手に言えたね」と声をかけました。ヒトシは再びコウジとユミに向かって「かしてー」と言いました。
「おともだち、まだ遊ぶかなあ。貸してもらえなかったね。残念だね」と担任がヒトシの気持ちに共感するとヒトシは声を荒げて「かしてー」と泣きだしました。
と、その様子を見ていたミキは自分が持っていた“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”の中に入れてからヒトシの傍まで行ってツンツンと肩を突いて「ヒトシくん、あるやん」と言って“しゃもじ入れ”を指さしました。ヒトシは「えっ」と怪訝な表情で“しゃもじ”が入っているのを確かめました。 さて、それから・・・

なぜ、ミキの思いやりの行動が現れ出たのでしょう。担任は「ミキの粋な計らい」と綴っていますが、おそらく日頃の保育スタイルと保育者の基本姿勢が強く影響していると考えられます。どのクラスもグループを基本に過ごしているのです。
1歳児は3人1組の固定のグループで1つのテーブルを使います。ご飯の時も3人が揃うまで待ちます。揃わない時はそれに気が付いた子が誘いに行きますが、担任は自分から声掛けせずに、子どもが気づくような微妙なかかわりを意識します。お茶を飲む際もテーブルの中央に重ね置きされた3つのコップをメンバーの誰かが配ります。誰がするのか決まっていませんが、毎日、誰かがする。それが不思議です。

してあげるorしてもらう。子ども同士がアウンの呼吸で役割を担います。トラブルもありますが毎日くり返されます。ここが鍵です。してあげた子、してくれた子、双方の顔も名前もはっきり理解している日々が“思考力”を育て“思いやり”の源泉になっていると解します。「家族的な」とはまさにこのような状態を差すのかもしれません。3歳、4歳、5歳児では「自分たちの事は自分たちで決めるルール」が日常の柱になっています。1つの事を決めるのに日課のように40分から50分の時間をかけて話し込む姿が見られます。小さな声でゆっくり納得いくまで話し合いを促す保育者の姿を、いつも目にします。観ている私の方がイラッとするくらいです。この園文化が子どもの思考力向上を下支えしていると実感(体感)しています。

それから……ミキは仲間と遊びたかったのです。追いかけ合いを見ていても楽しくないと感じたミキは自分の“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”に突っ込んでヒトシに取らせて遊びの続きをしようとしたのでした。思いやる気持ちというより思考力の芽生えです。それは子どもの行為と自身を洞察する担任とグループを強く意識した子どもの世界の方がより確かに育まれるのではないか。子どもの姿を眺めながら、そんな風に思考します。 【資料提供:ななこども園(大阪府:藤井寺市)山本美千代】
※ 次回は6月13日:池田すみれこども園(大阪府寝屋川市)の予定です。

カテゴリー: 法人情報
2018年5月9日 水曜日

【ユナタン3-43】
~ 取り合い~譲り~譲られる葛藤 ~

2018年5月9日  片山喜章(理事長)

「道徳」が教科になったことで様々な議論が巻き起こっています。昨今の世界情勢や政治問題、企業の不祥事を見聞きしている子どもたちは、何を感じているでしょう。とりあえず大人の前ではお利口さんに振る舞う術を会得し、ある時期、ある場面で爆発する。そんな副作用を案じます。「道徳」の教科化は子どもの人権や能力に対する社会の過少評価の現れだけでなく、明日の日本や世界に対する私たち自身の漠とした「不安の解消策」の1つではないかとも感じています。

幼い子には“良い”“悪い”の価値観を伝える事が教育であると理解されているようですが、道徳や倫理は(他者の中の)自己の生き方を自問自答するような経験を重ねながら感じ取り学び得るものだと思います。子どもどうしの関係の中に学びの場があり、大人は口出しする前に葛藤する時間をあたえて見守る事が大切だと考えます。今回は、その見守った例です。今年1月の朝の乳児の保育室でのことでした。

朝夕は、0歳児から2歳児まで合同で「コーナー保育」をしています。
0歳児クラスのミイ(仮名:1歳10か月女児)も、2歳児クラスのケイ(仮名:3歳1か月女児)も「おままごとコーナー」で互いに影響を受けているような、いないような、乳児ならではの微妙な関係性、空気感で過ごしていました。(朝からごっこ遊びが大賑わいでスゴイな。乳児も異年齢のコーナーで過ごすのはなかなかいいものだ)と0歳児のミイの担任は微笑ましいその光景を眺めていました。

突然「ぎゃー」「ギャ~」と叫び声が飛んできました。ミイとケイがポットの取り合いをしています。どちらが先に持っていたのかは定かではありませんでした。
ミイは「ぎゃーぎゃ~」と叫びながら手を放さず、ケイはケイで「だめ、これは私が使ってた!」と大声を出して主張し、1つのポットにくっついた2つの手は、拮抗状態を保ったまま、双方譲らず、叫び声だけが響き渡ります。
担任はただ黙って見守りました。ケイはミイの担任の視線を気にしたか、ごく自然に手の力を緩めてしまったのです(さすがお姉さん?)。ポットはケイの手から離れ、ミイはグイっとポットを引き寄せて我が物にし、表情は興奮気味でした。
ポットを譲ってしまった2歳児のケイは「うわ~ん」と激しく泣き始めました。
ケイはとっても悔しそうです。ミイを恨めしそうに睨みながら泣き続けます。睨まれた方のミイは首を横に振りながら後ずさりします。殺気みなぎる光景です。
ポットを手にし、思い通りになったはずなのにミイの表情は固いまま。で、目はじっとケイを見つめています。担任は殺気を取り除くかのように笑顔をこしらえて、ミイに「ケイちゃん、泣いてるね」と話しかけました。けれども年下のミイは年上のケイから目をそらさずにポットを手にしたまま立ち尽くしています…。どうなるのだろう…と担任は黙って様子を見守ることにしました。するとミイはゆっくり、ゆっくり、とケイに近づいていきました。(おや?どうする!)

0歳児のミイは(考え抜いた揚句)、重苦しい表情で「ハイ、どうぞ」とポットを年上のケイに手渡したのです。(やさしい!?)“自分が泣かしてしまった…。ポットを返した方がよさそうだ‥”と年下のミイがそう感じ取って譲ったように見えました。そしてすぐ担任の胸に飛び込んで〔ハイどうぞシタヨ〕と片言で報告します。けれどもその表情はたいそう落ち込んでみえました。そのあと、ミイの姿は担任の膝のうえに在りました。顔を担任の胸に押し付けていました。
10分後、2人に明るさが戻ってコーナーに居ました。ミイもケイもその後、何もなかったように、それぞれがそれぞれに朝の時間を愉快に過ごしていたのでした。

譲ることが尊いとは限りません。まして0歳児、2歳児はどうでしょう。双方とも強い葛藤の末の不本意な選択だったに違いありません。なぜ譲ったのでしょう。
担任はミイの母親的な存在です。ケイは「自分がお姉さんだから・・・」と感じたのでしょうか。ミイも担任が傍に来たので「譲らなきゃ……」と抑制の気持ちをはたらかせたのでしょうか。もしも担任が折り合いを付けてほしいと願い、言葉で「譲り合い」の規範を伝えたらどうなったでしょう。担任も葛藤しながら見守ったことで2人には“自分で深く考える経験≒葛藤”を味わえたのかもしれません。

このケース、担任の目の前で双方がつかみ合いに至ったとしても、その経験は有意義だと思われます。正解はなく複雑な心模様を描いてこそ道徳心の芽生えです。
「信頼できる大人の存在と葛藤し見守る態度」≒「規範の代替」であり、それが「強い葛藤」≒「道徳心」を双方にあたえた良い事例だった、と私は解釈します。
【資料提供:みやざき保育園(川崎市):池田麗佳】
※ 次回5月23(水)は、ななこども園(大阪府)です。