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片山喜章のページ ~思い・願い・提言~
2018年2月27日 火曜日

〔ユナタンDX-8〕 №39
~ 「無関心」と「ひとごと感覚」がつくりだした改定指針と解説書 ~

平成30年2月27日  片山喜章(理事長)

「保育所保育指針」や「認定こども園要領」が10年ぶりにこの4月から改定されます。10年に1度の改定のたびに常々訴えているのは「文言のすばらしさ」と「埋めようのない違和感」、そのギャップです。かつては「保育実践」と「指針の文言」をマッチさせてくださいとお願いしていました。子どもを直接保育する保育者にとって実践の指針になりえていないからです。「…しなければならない」「‥することが重要である」と硬い文章で書き連ねています。「それは違う!」という反駁ではなくて「それって具体的にどういう事?」という疑問が湧き出ます。そこが苦慮する所なのにその問いには「そこはそれぞれの園で工夫してください」という回答が返ってきます。我々第一線が無関心になって当然です。
今回の改定の3年くらい前から「改定するなら過去10年、どのように活用されてきたのか、ヒアリングやリサーチが必要」といくつかの紙面で訴えてきました。賛同も得ました。が、指針は大臣告示だからそんなシロモノではないという奇妙な正論をぶつけてきます。

昨今は、諦念の境地を超えて、なぜ、保育の最前線に適さない保育指針を作成するのか、役人や御用学者の思考の構造を考えるようになりました。IQの差とEQの差でしょうか。同時に、いま、まさに(3月6日に関西でキック・オフ)、法人内で保育と運営指針(日々の保育と運営の相補性を満たすオリジナル)をつくりださんとしているところです。
いわゆる「昭和の保育」や「平成の園運営」を凌駕し止揚する園文化の創造です。追い追い、お知らせします。これまで保育界ではこんな突っ込みがされていました。
【園として、どんな子どもに育ってほしいか】
それに対して、私たちは“よく考える子ども”とか“物怖じしない子ども”を標榜してきました。では、そのためにどんな過ごし方をするのか、そこがとっても難しいのです。
ある意味、職人技です。様々な事を子どもどうしで話し合ってわくわくしながら決めていく。この単純なことさえ第一線ではなかなかできない。そんな教育を受けて来なかったからです。保育の課題は「上意下達の画一主義に未だに縛られた大人社会のあり方」と連動しています。指針がそこに言及しないのは指針自体がこの旧社会の代弁者だからです。

“よく考える子ども”も“物怖じしない子ども”も先生の提案した活動が面白くなければ「面白くない」と訴えて、やめる。となると保育者にとっては厳しいものになります。そのかわり面白ければ興味を深めて“予定外”の活動に発展する。その予定外の活動をすばらしい保育と園全体で称賛する。でなければ保育者は成長しないし、保育や教育という社会的営みが衰退します。「マジメな子」を再生産する保育は避けたいものです。こんな大切な日本の保育の方向性について、指針はまったく語らない、語れないのです。
保育界では【この保育を通してどんな力が子どもについたのか】という突っ込みがあります。この設問自体、あり得ないのですがよくなされます。子どもって一体誰でしょう。
子どもは十人十色で1つの活動や経験の受け止め方も違います。ここに日本社会の「子ども集団を個性の集合体と見ないで1つの塊と捉える集団第一主義」が見え隠れします。

しかし、保育者集団は、時により事によって、個々がどんなふうに成長したのか保育者どうしで認めることができます。この互いに認め合う行為が、より良い保育と運営の原動力になります。なのに、園の実態を知らない役人や御用学者は『保育指針』を盾に各園の園長や保育者に紋切型で物申します。実にやり切れないです。保育士たちが最前線であり管理職は第一線です。学者は後方支援部隊で諸制度の作り手である役人は後方司令室、という保育実践の構造を再構築しないと、最前線で働く保育士の意欲は衰退するでしょう。

第一線に居る管理職にも諸々の葛藤があります。先日、関西のマナー研修で髪の色の問題(issue)がでました。当然「何色でもOK。緑や紫もグッド」です。管理職は「保護者からクレームが出る」と反論します。「聞き流せば良い」と私は返します。ピアスをしたり爪を長く伸ばしたりするのは安全上の理由で禁止します。かつてNHKは「長髪であるから」という理由でタイガース(沢田研二)やスパイダース(堺正章)を出演させませんでした。「マジメそう」を求め合うのが日本文化です。保育士に「校則まがいの規範を求めるのは良い保育環境と言えない」と指針は率先して語るべきです。そこで議論が起こり、賛否が生れ、コンセンサスを求めて語り合う、それが指針が果たす本来の役目(思考)でしょう。
2月22日に発表された「保育指針解説」は374ページに及びます。その最後の8行です。

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
施設長など職員の人事・配置を担当する立場の者は、研修に参加した
職員がそこで得た内容等を日々の保育に有効に生かすことができるよ
う、専門分野のリーダーに任命するなど、資質や能力、適性、経験等に
374             応じた人材配置を行うことが重要である。保育士等のキャリア形成の過
程で、研修等による専門性の向上と、それに伴う職位・職責の向上とが
併せて図られることは、保育士等が自らのキャリアパスについて見通し
をもって働き続ける上でも重要であり、ひいては保育所全体の保育実践
の質の向上にもつながるものである。』   ?????

厚労省のHP  保育所保育指針解説参照

幼稚園と違って、朝の7時から夜の7時(8時の園もあります)まで延々と保育時間が流れます。流れる時間のなかで子どもたちはそれぞれ活動します。それを保障しながら、どこで時間の切れ目を作って集まって、どのように効率的に周知作業をするのか、後方司令室(厚労省)にお尋ねしたいものです。すべては、私たち(みなさん)の無関心とひとごと感覚で指令を受け止めてきたことに由来しているのでしょう、が………。

2018年2月13日 火曜日

〔ユナタンDX-7〕 №38
~ ごっこ遊び 劇のお稽古 想像性の行き先 ~

平成30年2月13日  片山喜章(理事長)

発表会のお稽古を眺めていると、とても不思議に思うことがあります。どうして2歳児の子どもでも舞台にあがると普段の自分ではない劇の役柄を演じることができるのでしょう。4歳児5歳児になると厳しいお稽古でも、なぜか、投げ出さないで続けます。お稽古中に笑いも生まれます。
普段、保育室で“ごっこ遊び”や“身体表現”をするときは、嬉しそうにその役になりきる子どもたちですが、それと同じ気持ちでしょうか。ぜんぜん違うと思います。一体全体、この子たちの心の中では何が起こっているのでしょう? “人間らしさ”“子どもらしさ”という保育の根幹に関わるテーマだと思います。その辺りの解釈について、今回、私なりに考えてみました。

“ままごと”なら、昔も今も子どもの“ごっこ遊び”の定番としてどこでも見られます。新生児から人は他者の振る舞いを見て、自分の中に取り込んで、マネをする。これが学習の基本だと思われます。“ままごと”は、お家の生活を思い描き(想像)ながら、それをベースに自分なりに物語を創って表現します。遊びながら頭脳をフル回転させて、話の内容をより面白い物に創りあげようとします。思い描いたことを演じて遊ぶ(創造する)ことでさらに想像力が膨らみます。
私たちも、自分の思いや考えを相手に伝えようと対話するとき、集中して熱く語り合っていると自分でも気づかなかった新たな考え方が場の空気から引き出されます。それと同じように“ごっこ遊び”では「想像」(内面活動)と「創造」(表現活動)が相乗的に作用していると感じます。

「お母さんはお出かけしますから、お利口さんにしておくんですよ」と気取ってみたり「お散らかししてはダメでしょ!」という言葉遣いに、その子の母親の口癖が乗り移ります。真剣なやり取りをすればするほど、そばで聞いている私たちは苦笑してしまいます。想像したことを言葉や身振りで表現し合うことこそ、幼児期に最もふさわしい集団教育の姿(効果)であると考えます。

35年くらい昔、私が保父さん(保育士)時代には“イヌごっこ”なるものが流行っていました。当時の私はイヌ役になり、子どもたちから可愛がられて疲れを癒していました。子どもたちも先生(私)を可愛がって悦に浸っていました。4年ほど前、その“イヌごっこ”を発見しました。1人がイヌ役で首にひもをかけられて四つん這いで進み、もう1人の子がイヌを引いていきます。最近、縄は危険だと考えて縄跳び以外は一切、自由に使わせない園が増えています(日本的安全の課題)。
その“イヌごっこ”は、ペットのように無条件に可愛がられる役と可愛がる役=可愛がられたい願望と可愛がりたい欲求の双方が1本の縄で繋がります。微笑ましく感じるところですが、なぜ、子どもたちは“イヌごっこ”をしたがるのか、そこも興味深いところです。

人間社会は競争と協力(言い方を変えると、個の利益と集団の利益の葛藤)をくりかえして発展してきました(発展と称してよいかは疑問です)。森林伐採や油田開発などの自然破壊によって、人は社会を変え、生活を一変させました。その変遷の過程で大規模な殺戮も行なわれてきました。
ある意味、たいした理由もなく束になって友達に陰湿な振る舞いをするイジメ問題も同根のように思います。およそ理性や知性では理解できないのが現実です。これも“人間らしさ”なのかもしれません。もしかして「イジメを受けてもくじけない」「イジメには加担しない」ための備えとして優しくしたり、されたりする遊び(経験)を重ねているのかもしれません。このような遊びによって人間社会が持つ残忍さに打ち克つ耐性をつけているようにも感じます。⇒もしそうなら「生きる力」を育むには、我慢の経験ではなくて想像力を駆使した面白い遊び体験が重要になります。

「そこじゃなくて、舞台のこの線の上で!」と劇のお稽古中、担任の先生から檄が飛ぶことがあります。日本の至る所でみられる光景です。普段“めだかの学校”の先生もお稽古が佳境に入ると“すずめの学校”の先生に変身してしまいます。日頃、ゴンタな子もお稽古中は思いのほか従順になります。良し悪しは別にして、2歳児、3歳児でも、なぜ、そんなふうに我慢できるのか、ほんとうに不思議です。そこが“ごっこ遊び”と大きく違うところです。先生が怖いから頑張るとか、先生に義理立てして期待に応えようとしているとも思えない理解困難なお稽古風景です。

たぶん、園全体から湧き出る“場の力”だと思います。保育者集団の強い願いがまとまって舞台の上に“形態形成場”を生み、億千万の“気合いの素粒子”が舞台の上の登場人物たちの頭や胸を突き抜けているのだと、ホンキの本気でそう考えています。そんなに遠くない時期、心理学と量子物理学が融合して(エネルギーとしての)「意識の謎」の解明に着手すると期待しています。

子どもは空想力が豊富で変身願望が強い。故に大人の横暴や困苦に耐えられると考えていました。プリキュアとか月光仮面に変身したいという願望は成長欲求の現れですから、多少の困難は乗り越えます。しかし、劇のお稽古は、そんな単純なものではないです。その役柄を演じたいという憧れと、嫌でも演じなければならない使命感が混在しているようにも見て取れます。日常生活ではまずありえない異色の葛藤を味わっています。わくわく、もやもや、ふつふつ、はらはらの体感です。

私の経験からいえば、子どものアイデアや発想を活かそうと努めるほど、見ていただく劇としては、内容も展開もだらだらしてメリハリのないものになる可能性があります。しかし当日は、はつらつとして、親に手を振ったり、アクシデントやトラブルを笑いとばしたり、少々間違えてもお構いなしに会場を笑いに誘い込む雰囲気になります。
逆に、最初から枠にはめてピシッパシッと練習して仕上げると確かに内容も展開もしまります。しかし当日は、ピリッとうまくいくこともありますが、一旦、アクシデントやトラブル等で崩れると、もうどうにも、と・ま・ら・な・い、そんな時がありました。

法人各園では、子どもとともに作り上げる劇づくりをめざして格闘?していました。それは普段の“ごっこ遊び”と舞台の上の格別なお稽古の隔たりを埋めるチャレンジでもあります。園の保育者集団が総力(創意と総意)をあげて、1つ1つの出し物に向き合えるかどうかがポイントです。保育者1人ひとりが「自分が主役」であることを自覚して実践する協同劇でもあるのです。
みなさんの園の劇は、果たしてどんな内容、どんな雰囲気になる(だった)のでしょう。