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片山喜章のページ ~思い・願い・提言~
2017年1月25日 水曜日

≪ユナタン:30≫  in  種の会
今回は「発表会」について、次回は「移行保育」について基本的な考え方をお伝えします。
《生活発表会のお稽古に漂う空気の裏側》

平成29年1月25日 理事長 片山喜章

毎年、2月には「生活発表会」と称して、劇や合唱や合奏などのお披露目があります。
お披露目の仕方は、7園7様で、しっかりした舞台と緞帳があったり、台形の舞台だけだったり、段差のない床の上で演じたり、子どもたちの“熱演”が映し出される背景はそれぞれ異なります。ですから、各園が考える「劇の演出や構成」は、その園の条件によって大きく異なります。

当日、子どもが身に着ける衣装についても様々な考え方があります。「衣装が派手だと子どもの表現をスポイルする(衣装負けする)」とか「衣装を着けた方が子どもの表現意欲は増す」とか業界内でも賛否が行き交います。私個人は「舞台との関係で相対的に考えた方が良い。すなわち、舞台らしい舞台であるほど、衣装は、より華やかな方が良い」と考えます。(各園、任せです)

劇の台本づくりは、子どもたちと話し合いながらも、演出家としての先生が責任を持って創りあげて演出するのが基本だと考えます。先生の演出力によって子どもの表現力は間違いなくアップするからです。けれども、保育者は劇(演出)のプロではないので、そこが悩ましいところです。しかし同時にプロでないからこそ、子どもたちの発想を尊重し、子どもの提案を取り込んで共に創りあげることができます。これは、これで素晴らしい保育になる可能性を秘めています。

《先生が自分自身のセンスを磨きながらしっかり指導し、子どもたちがプレイヤーとしてそれに応える場面》と《子どもから出る提案を先生は尊重しそれに応えて、いっしょに創っていく場面》、この《2つの場面》が、実際のお稽古では絶えずせめぎ合っています。このせめぎ合いからピリピリした熱気が湧き出てきます。そして、それはマダラ模様を描いているように感じられます。きっとこのマダラ模様の熱気が、発表会当日まで子どもたちの意欲を包み込むように感じます。

私自身、直接(ほぼ創作)、間接を含めて70作を超える劇づくりに関わってきましたが、今尚、たくさんの謎を抱えています。なかでも、不思議なのは、お稽古に取り組む時に見せる子どもの義理堅さ、律義さです。日頃、悪ふざけが目だったり、先生のいうことをなかなか聞けなかったり、集団からはみ出たがる子どもたちも、劇の練習では、素直に先生の言うことを聞きます。発表会が近づくにつれてその傾向は強くなります。ということは、このような《期間限定の厳しい体験》が子どもの育ちを後押ししていると考えるのですが、みなさんはどのように解釈されますか?
最近まで劇のお稽古中、先生がカミナリを落とすのは、その先生の“指導力”が乏しいからだと考えていました。自分の力不足を子どもに当たるとは・・! 悪事をはたらいたわけでもないのに、お稽古中に興味を無くしてダラ~としただけで叱られる事に、ガテンがいきませんでした。子どもがかわいそうです。今もその思いは同じです。しかし、子どもはカミナリを落とされても、逆切れ?しないで殊勝な顔をして黙々とお稽古を続けます。昨今、それが不思議でふしぎでなりません。

劇の中では、クラスの仲間全員が何かの役柄になって、日頃使わない言葉を発したり、奇妙な動きを求められたりします。子どもに限らず人にはもともと変身願望が在り、そこが刺激されるので叱られたり、強いられたりすることを、受け入れたり、楽しめたりするのだと考えられます。
自分ではない役柄を演じるという人間だけが抱く“根源的愉悦”(私も一時期、コスプレにハマっていました=冗句)が、お稽古の辛さを押しのけるのかもしれません。また、指導する先生の真剣さやクラスやグループで練習する時のピリピリ感のある空気に浸ると、しぜんに自分を抑制しようと努めるのかも知れません。(ほんとうは、もっと底深い未解明な事実が在るのでしょうが・・)

4,5歳児においては、既に発表会を経験していますから、前年度、あるいは前々年の思い出が大人の何倍ものリアリティを持って一気に押し寄せて(子どもによってはたくさんの台詞を覚えています)、親近感を抱き、達成感を見通しているのかも知れません。本番当日、大勢のお客さんの前に立つ自分自身のことを無意識の世界でイメージできるので耐えることができるのだ、と推測しています。2,3歳児も、毎日まいにち劇のお稽古があり、先生もその時間だけはキリリとしているので、何か特別な事態であることを感得しているように思えます。

また、子どもが大人より優れていると思うのは、先生が厳しい顔つきでカリカリ指導していても、先生の不備や間違いに気づくとその場でしっかり指摘することです。時には「せんせい、ちがうよ」と厳しい口調で詰め寄る子もいます。また、先生の勘違いにみんなで爆笑したりします。子どもたちは従順なイエスマンにはならないのです。最近、特にその傾向が強いので嬉しく思います。
社長や理事長が、マトを得ない話をしても「ズレてますよ」とはなかなか言えない日本の組織風土を思うとき、ある意味、彼らは頼もしい存在で、そのままの姿で成長してほしいと願います。

とまあ、こんなふうに考えると、厳しいお稽古であっても、4週間ほどの期間限定なら、厳しさをしっかり体験することは教育的価値があると言えます。お稽古のプロセスにおいて、子どもたちがイメージをより深く表現し合ったり、子どもどうしで互いに褒め合ったり、各園各様に工夫を凝らすことで教育的価値+豊かさを育もうと、各園の先生たちは今まさに奮闘しているところです。

2017年1月11日 水曜日

ユナタン:29≫  in  種の会

 ~ 「まとも」 と 「ふつう」 を考える ~

                           平成29年1月11日  片山喜章(理事長)

新年を迎えると、誰もが、一旦、立ち止まって、自分自身の生き方や仕事の目標、社会や世界のあり方まで 「今年の抱負」 として心を込めて頭に描くだろうと思います。けれども現実は、個人の夢や願望が“グローバリーゼーション”という止めようのない“世界潮流”に押し流されて変形していくように思えます。

同時に昼夜を問わず流れ込む大量の「情報」によって、世界規模で、一国において、一組織、一個人においても、“光と闇の斑模様”がより鮮明に縁取られてきた、そんな感覚を抱く2017年の幕開けです。

 

昨年、関東のある保育園のお餅つき大会で食中毒が発生しました。すると、その園を所轄する行政はいち早く各園に「つきたての餅は食べずに市販の物を食べさせる」ように、おふれを出しました。奇妙な話ですが多くの園が仕方なしにその指示に従いました。これって「まとも」でしょうか? 極端です、よね。

この食中毒によって、どれだけの数の子どもにどれほどの重篤な症状が出たのか、その情報は定かでなく、原因解明の前に、まずは、ついたお餅は食べないという極端な思考が優位に扱われ(お餅つき大会を中止する園もありました)、それが善後策として決定されたことに強い違和感を抱きました。

 

子どもの一生における健康を考えるなら、ほんとうに回避すべきリスクとある程度、必要なリスクを識別する判断力が必要だと思います。幼少期、バイ菌や雑菌等に触れて慣れて、いくつかの病気をしながら強くなる(小児科医の見解)、小さなケガをくりかえしながら自分の体を守る術を体得する等、かつては、それが“まとも”な考え方で一般的でした。奇妙な話は、専門分野にも及びます。例えば、生れてくる子のアレルギー予防策として、母親は妊娠中や授乳期に食物アレルゲンを摂取しないという情報が世界中に広がり(グローバリズムの力)、勧告もなされました。しかし事態は真逆でした。きちんと順守した母親により多くのアレルギーを持つ子が生れ、昨今、「母親はアレルゲンを含む食生活をしている方が良い」というデータが学会誌に発表され方針転換がなされました。まともって何でしょうね。 (『NHKスペシャル』より)

 

家庭やレストランでは、サラダなどの生野菜を食べられますが、園の調理室では、すべての野菜を茹でる、トマトさえスチコンで熱を通す、そこは行政監査で指導される、これが実態です。今日の食中毒の最大の防御策ですよ!と諭されると否定はできません。保育関係者は、もう慣れっこになった日常の姿ですが、どこか奇妙です。防御=排除という思考を続ける限り、このような傾向は強まり、常態化します。

確かに今日の時点では何も起こらないかもしれません。しかし、私たちは、ヒト本来の“生きる力”を、明日を担う子どもたちからどんどん奪っていることへの罪悪感に苛まれます。行政指導やマスコミの論調や世論の傾向に葛藤を覚えます。そんな時、一旦、立ち止まって「まともな事」「ふつうの状態」を考えてみると、新しいアイデアに出会うことがあります。今年は、各園、どんな出会いがあるのか、楽しみです。

新年早々、小難しい話題ですが保育の話です。子どもたちは葛藤経験によって、思考力や判断力を磨きます(逆に過干渉は鈍化させます)。私たち保育者集団も常に子どものあるがままの姿を凝視しながら、“手持ちのあるべき論”と重ね合わせて葛藤し、そこから創意を捻出し新たに保育内容に反映させる、それが「ふつう」の仕事の仕方であり、「まとも」な保育の大道ではないかと思い至っています。

保育内容の核になる子ども観や保育観は変えない、変えてはならない!と言われますが、私たちは、時代の変化に応じて、変えることが「ふつうの保育」であると捉えています。

 

例えば、昔から今に至るまで、マーチングといわれる鼓隊や鼓笛隊が保護者の大きな評判を得て保育に取り入れる幼稚園、保育園がありました。そこには厳しい練習があり、その厳しさが教育であると考えるグループとマーチングなど、もっての他である!と唱えるグループ(特に公立園)に大別されていました。

その当時から現在に至るまで、肯定か、否定か、というまともではない極論戦が繰り返されています。昔、私は否定派でしたが、年々、不毛な議論をしている事に気づき、今は、良し悪し論ではなくて、指導者の願いの強さや子どもたちとの信頼関係、さらに幼児向けの《練習方法》の内容を関連させて判断し、評価します(当法人のバルーンや組体操の練習方法はその典型)。また練習の頻度や1日の中でどれくらいの時間、練習をするのか、その実態から良し悪しを考えるようになりました。10分以内の特訓なら毎日しても毒より効能は大きく、法人のお家芸の《1歳児の毎日サーキット》は最良の指導方法で、多彩な動きを経験させるために、その時間は全員に対してウロウロしないように促し、コースを巡回するように誘導します

 

昨今、人気を博しだした「幼児英語」も20年くらい前は、「日本語もマトモに話せない幼児に英語なんて、どうかしている!」という考え方が多数派を占め、専門家からも「概念形成がしっかり出来上がっていない幼児期から、英語教育は好ましくない!」と自信満々の「見解」が出されていました。しかし表面ページの“アレルギー対策”同様、「専門的見解」は、その時代の推論でしかなく“最新の研究”によって真逆になるケースがよくあります。(昔、強打して頭にタンコブができると子どもは、大人に一様に患部を強く揉まれ、その痛みは倍増しました。その処方は良くないことが判明し、今は冷やすのが常識になりました)。

実際に自分が英語教室を体験してみると、レッスン方法にもよりますが、プラス面が多いと実感します。単純にエイゴを学ぶというより、思考の幅やセンスを広げているように感じます。小学校でも英語が導入される社会的背景や“時代の後押し”が目には見えない力として、はたらいているように思えます。

 

というように、是か、非か、感覚的に○×議論をする前に、その背景にある現実に目を向ける重要性を感じます。EUにおいて、シリア難民を受け入れるのか、自国民の利益を優先し難民を排除すべきか、これも○×論議のぶつかり合いで「まとも」な議論に至りません。米露の覇権的利己主義の結果、シリアから難民が生み出されている現実に対して、世界は、強い抗議のムーブメントを起こすべきなのに、各国はどちらかを支持し、その結果、ポピュリズムを培養しています。究極のところ、貴方自身と隣人のお付き合いの仕方の問題であると考えるのが、「ふつうの人のまともな思考」だと思うのですが、いかがでしょう…。

2017年1月6日 金曜日

≪ユナタン:28≫ at なかはらこども園

~ 太郎は名指揮者 ~

平成28年12月27日 理事長 片山喜章

ご承知のように、「フリーデー」と称するコーナー・ゾーン型の保育(行事の時期をのぞいて水曜日に開催)での太郎(仮名)の姿です。太郎は3歳児ばんび組で兄が2人いる末っ子です。とても活発ですが、少々、甘えん坊な面もあります。そんな太郎にとって「フリーデー」は今では大きな楽しみの1つになっています。けれども「フリーデー」を始めた頃は、自分の遊び場所をなかなか選べずに、うろうろする姿が毎回のように見られました。

「フリーデー」といっても、「遊び場ボード」に自分が選んだコーナーの名前が書かれたスペースにマグネットになった自分の写真を貼ります。自分の居場所がみんなにわかるようにし、また、そのコーナーに誰がいるか、子どもたちどうしで分かり合える仕組みです。遊戯室に設けた「積み木コーナー」の遊びをやめて「科学のコーナー」に移動したくなったなら、この「遊び場ボード」に立ち寄って、マグネットになった自分の写真を「科学コーナー」のスペースに移し替える作業が必要です。それが基本のルールです。太郎はその作業をしないままいろいろなコーナーを転々と歩きまわることが続きましたが、運動会が終わった頃から、ようやく好きな場所を選んでその場で遊ぶようになりました。写真を移動させるルールも理解できるようになりました。

12月9日(金)のことです。この日は法人全体で取り組んでいる保育環境評価を受けるので、「フリーデー」になりました。法人以外の先生方も評価者としてたくさん来られました。
その朝、太郎は泣きながら登園しました。母と離れる際、大泣きし担任に抱っこされたままでした。私(片山)はそんな太郎に近寄って巧みに泣きまねをしました。これは私の秘策です。
いろんな園に行って、泣いている2~3歳の子どもの前では、(知らないお爺さんですから)慰めるのではなくて、巧みに泣き姿を見せて、その子の顔を覗き込んでは顔を背けて、見ないで!って素振りを演じます。80%以上の成功率で泣き止みます。「なんじゃ、このジーさん、なんで泣いているんだ?」と不思議な世界に引きずり込むことで、泣き止んでしまうのです。

太郎は泣き止んで、しばらく、担任とままごとコーナーで遊んでいました。私も評価者の1人ですから「絵本コーナー」から「積み木コーナー」まで巡回しました。評価者たちが一様に驚いたのは、どの子もどの子も充実して遊び込めている姿です。「積み木コーナー」では約2時間、ずっと、ロケット公園の写真を見ながら積み木で再現したり、色付きの紙を積み木で囲んで大きな池を作ったり、単純な積み木遊びを越えたイメージの世界が広がっていました。
11時頃、5歳児ぞう組の部屋の方から、ピアノと楽器の音が聞こえてきます。時間限定で、いろんな曲をいろんな楽器でリズム打ちができる「楽器コーナー」がオープンしたのです。
無口なY田先生(推測に任せます)が、ピアノの腕前を発揮しています。ここでもルールがあるようで、1曲終わるたびに、楽器を交換したり、順番待ちしていた子どもと代わったりします。みんなルールをしっかり守っています(こういう姿もコーナー・ゾーンの特徴)。私は他のコーナーを巡って、再び「楽器コーナー」を覗いてみると、そこには、あの太郎の姿がありました。

太郎は、きれいに並べられた楽器を見て、目を輝かせて太鼓に興味を持ちました。
人気の太鼓は順番待ちが必要です。しばらく自分の順番が来るのを待っていた太郎は待ちきれず、順番をぬかそうとします。すると、5歳児ぞう組の子が厳しい表情で一言。
「ぬかしたらあかんで、じゅんばんやで」 太郎はその子の怖い顔つきをまじまじと見つめ、そして、すぐに列の後ろに戻り、自分の順番をしっかり待つことができました。もしも、先生が諭していたなら、駄々をこね、ふくれっ面をしていたかもしれません。順番を守った太郎は、打って変わって誇らしげに太鼓を叩きました。そして“お約束”を守って、次の子に代わりました。

次に、ウッドブロックの列に並んだ太郎は、これから演奏しようとする5歳児の2人の女児のところへ行きました。「こうやで!」と左右2ヶ所を交互に叩くのだ、とウッドブロックの叩き方をかなりシツコク伝えました。1人は「太郎君、知ってるし!」とムッとする気持ちを吐き出し、もう1人は「ありがとう、太郎君」と返しました。
どちらも太郎にとっては貴重な経験です。
その後、楽器を囲んだ中心に指揮者がいることを発見した太郎は、すぐに指揮者の列に並びました。速くやりたい気持ちを抑えきれない様子でしたが、前の2人が終わるのをじっと待つことができました。自分の番がくると太郎は髪を振りみだし、全身を使って指揮棒を振ります。
まさに指揮者気取りです。1曲が終わると“お約束”を受け入れ、その時、太郎は華麗な指揮さばきをして、すっきりした気分ですぐに次の友達にバトンタッチしました。“楽しいから自己抑制できる”“ルールがあるから自己抑制できる”“先生ではなく年上の仲間から言われるから自己抑制できる”。あらためて「フリーデー」が太郎の成長を支えていると感じました。

そして、振り返りの時間。クラスのサークルタイムでは、じっと座っていることが難しい時がある太郎が、この日、Y田先生のそばで自主的にお手伝いをしました。Y田先生が、それぞれの楽器について話をしていると、先生が言った楽器をすぐに取りに行き「はい、これ!」とさっと手渡します。サークルタイムの中心的存在になった太郎は、この日「楽器コーナー」の中で、揺れ動く様々な自分の感情を見事にコントロールできた喜びであふれていたでしょう。きっと数々の楽器を束ね終えたオーケストラの指揮者のように。【資料提供:横田英一】

2017年1月6日 金曜日

 ≪ユナタンデラックス:28≫ at ななこども園

1歳児(ももぐみ)からの贈り物

平成28年12月26日  理事長 片山喜章

今年、最後のユナタンは、1歳児もも組の「保育の実際」を記録したものを掲載しました

もも組担任 中野・中川・片野・山本(奈)

~ これまでの様子 ~

子ども達の関わり合いや繋がりが持てるように高月齢児、低月齢児、それぞれの性格や0歳時からの引き継ぎ等を考慮した上で、4月からグループ(3人)を組んで生活をしている(ぴんく部屋:1グループ3人×3グループ/しろ部屋:1グループ3人×3グループ)ねらいとしては、まずグループ内でのやり取りやモメ事等の経験を繰り返し、同じ年齢・月齢の子との関わりを持つこと。そこから少しずつグループ以外のお友達に興味・関心を持ち、最終的には1つのクラスとして2歳児クラスへと繋げていきたいと考えました。

グループでのやり取りを丁寧に関わり、見守ろうと思うと、子ども達が一番顔を合わすことが多いのが、おやつと給食の時間です。当初は、自分のマークのある席に着くと、同じグループの子が座っていなくても気にせず…ということが多かった。段々と自分のグループや同じグループのお友達のことを分かってきた頃、本来の自分を出せるようにもなってきていた。朝のおやつ前は「ママがいい!」、給食前は「トイレいくのイヤや!」、3時のおやつ前は「ねむたいねん!」と自己主張する子ども達。時には、甘えたり、イヤダ!という気持ちを受け止め、もちろん1対1で関わることも必要だと考えています。

・・・しかし、そんな時こそ、チャンス到来!揃っていないグループのテーブルに保育者がつき、その都度「ここ誰のお椅子?」「○○ちゃんどこにいてる?」「○○ちゃん来るかなぁ?」と、同じグループの友達を知らせ、気付けるように働きかけてきた。子ども達の会話や行動がどのような方向にいくのか、予想がつかず、頭を悩ませることも多いが、そのやり取りにじっくり時間をかけることを大事にしてきました。最近では、グループの友達が揃うと、子どもたちの方から「そ~ろった~!!」と知らせてくれるようにもなってきた。「そろったね~、“いただきます”しようか!」と声をかけると嬉しそうに笑い、「おいしいね~!」と言い合いっこするグループも。そんな姿から、次のステップとして、『お当番』(コップ配り)を始めていこうと思っています。“渡す”“もらう” 、「どうぞ」「ありがとう」のやり取りから、またひとつ友だちとの繋がりを持てるように、と期待を込めて・・・。『お当番』を始めるにあたって、これからどう進めていこうか?と担任で意見を出し合った。話し合いの末、ひとつ前の段階として『お手伝い』から始めてみることに。まずはおやつ&給食の際、コップをテーブルの中央に置き、子ども達の反応と行動を見てみようか?ということになった。すると、自分の分だけ取る子もいれば、横に座る子に「はい」と渡してあげる姿も見られた。また、担任から直接「○○ちゃん、コップ渡してくれる?」とお願いしてみたり、3人のうち1人の子の傍にそっとコップを置いてみたりと、色々なやり方で『お手伝い』をしたくなるようなの雰囲気づくりをつくっていきました。

 

~お手伝いスタート直後①~

(トマトグループ/A・B・Cは言葉がよ~く分かる3人で、おもしろい会話のやり取りがいつも聞こえてくる) コップをテーブルの中央に置く『お手伝い』に慣れてきたのか、席に座るとすぐ「○○が配る!」と主張するようになった。(やりたい気持ちが出てきたし、今までとは違う聞き方したらどうなるかな?…と思いながら)

保「今日は誰がお友達にコップ“どうぞ”する?」と聞いてみた。3人一斉に「Aが!」「Bちゃん!」「Cがする!」と口にする。やっぱり3人ともやりたいようだ。 保「じゃあ・・・“やってもいい?”って聞いてみる?」と一人ひとりの顔を見て言ってみると、3人それぞれ「やっていい?」とそれぞれの顔を覗くように相手の表情を確認する。が、3人とも「あか~ん」との首を振る。だれも一歩も譲る様子はない。「やってもいい?」「あかん」と、そのやり取りがくりかえされる。(うーん、まだ“譲る”のはむずかしいかなぁ。このままじゃ、給食食べられない…)思い切って、保「Aちゃんはだれに“ど~ぞ”したいの?」と聞いてみた。

A「Bちゃん」 保「Bちゃんはだれに“ど~ぞ”したい?」 B「Cちゃん」 保「Cちゃんは?」

C「Aちゃん」   (ってことは…? それぞれ好きな子に渡せる!)

保「じゃあ~そうする?」と一人ずつに1つコップを渡し、それぞれ“渡し”、“もらう”ことが出来た。コップが手に渡ると「もらった~」と喜び、笑顔になっていた。『お当番』とはまたちがうかも?とは思ったものの、まずは“やりたい!”気持ちを持って欲しかったので、これもアリか…と思いました。

 

~数日後②~

(トマトグループは特にやる気満々。他のグループではまだそこまでの意欲は見られない)

少しずつコップ配りが分かってきた頃、いつものように、保「今日は、だれがコップ配る?」と聞いた。

A「Aがくばる!」と声を荒げて主張する。 B「Bちゃんがしたい~」と小さな声でつぶやく。

C「Cがくばる~!」とテーブルに身を乗り出して言う。(今日もまた3人ともかぁ~…どうしようかな)

保「みんな配りたいの?どうしよう~」 A・Bは自分が配る!と一点張り。しかし珍しく、いつも同じく主張するCがその2人の様子をただ静かに見ていた。

保「Cちゃんは?」 C「いいよぉ~」すぐに“いいよ”と言ったので、本当に?と思いもう一度聞く。

保「いいの?AちゃんとBちゃん、コップど~ぞしてもいいの?」 C「うん!」と頷く。

(珍しい…じゃあ、AちゃんかBちゃんか…どっちか譲るかなぁ)

保「Cちゃんは、コップ配って“いいよ~”だって。よかったね~Aちゃん、Bちゃん、どうする?どっちがする?」と聞いたが、2人とも引くことなく、A「Aがする!」いつにも増して怒ったような口調で、声を張り上げる。B「Bちゃんするの!」と言う。何度訊いても同じ。2人とも頑なで、迷った末、聞き方を変えて聞いてみた。保「Aちゃんはだれに渡したいの?」 A「Bちゃん」 保「Bちゃんは、だれに渡したいの?」 B「Cちゃん」と答える。

いつものBなら、Aを指名することが多いが(普段はトマトグループでもBとAのペアでよく遊んでいる)このやり取りがあったせいか? BはCに渡したいと言った。 朝にも2人の間でちょっとしたモメ事がありました。(あれれ、Aちゃんにはだれが渡してくれるかな…)

保「じゃあ~、BちゃんはCちゃんに渡して、AちゃんはBちゃんに渡す?・・・Aちゃんには?」と聞いてみたが、3人とも「・・・。」“???”といった表情。(分かりにくいか・・・渡してみたら分かるかな?)

保「じゃあ、Aちゃん、Bちゃんに渡す?」とコップを渡す

Aは、Bに「はい」と渡した。

保「はい、じゃあBちゃんはCちゃんに?」とコップを渡すと、Bは言った通りCに渡す。そこで気付いたのか、困った顔のA・・・保「Aちゃんないね・・・どうしよう?・・だれがどうぞする?」

少し間が空いて C「Cするわ!」と初めは譲っていたCが手を挙げた。コップを渡され、Aの困った表情は和らぎ、給食を始めることができました。

 

~数日後③~

朝のおやつでのこと。Bは母と離れるのが嫌だったようで機嫌が悪く、保育者と1対1の関わりを求めていた。おやつもいらないと言うので、トマトグループはAとCの2人で食べることに。

保「今日は誰がコップ配る?」 A「A!」 C「C!」 保「AちゃんもCちゃんもしたいの?」 今日も長引くかな~と思いながら、トマトグループさんなら見通しを持てるかな?と思い、給食のときにもコップ配りができることを提示してみる。保「給食のときもコップ配れるよ。Aちゃんは今がいいの?」

A「いまがいい・・・」と少しいじけたように呟く。 保「Cちゃんは?今配る?給食のとき配る?」

C「Aちゃんいいよ~C、きゅうしょくのときくばるわ!な!」本当に良いのかな?と思い、もう一度2人に確認しました。保「Cちゃんはいつ配るの?」 C「きゅうしょく!」 保「今は誰が配るの?」 A「A!!Cちゃんは、きゅうしょくのとき くばるねん!」  2人とも晴ればれとした表情で、お互い納得したようだったので、朝のおやつのコップ配りはAがすることになりました。

そして、給食の時間です。 A「Aがコップくばる!Aがコップくばる!」と主張し始めるA。

(あれれ・・・朝のおやつでの約束は忘れちゃったのかな?)

トマトグループの3人が揃い、「そ~ろった~!!」と知らせてくれたので、保育者がトマトグループに行き、誰がコップを配るか聞いてみた。保「今日は誰がコップ配るの?」 A「A!!」 C「Cしたい!」 Bは黙って聞いている。(朝のおやつ時にいなかったBの存在が気になるけど約束したし・・・)保「朝のおやつは誰が配ったんやった?」 A「A!」 保「Aちゃんやね。でも、Cちゃんもやりたかったから、給食のときは誰が配るって言ってたんやった?」 A「Cちゃん!」

いじけたような表情をするかと思いきや、意外にもAの表情は明るい。

保「ほんまやね、Cちゃんがするって言ってたね」 (Bは何も言わないけど・・・どうかな?)

保「Bちゃんにも聞いてみる?」 C「うん。Bちゃん、コップくばってもいい?」

保「朝のおやつのとき、給食はCちゃんがするってお話しててんけど、Cちゃんが配ってもいい?」と朝のおやつ時の経緯を説明する。

B「うん」と、いまいち上の空なのか、はたまた朝のおやつ時は自分が参加していなかった(でも、そのやりとりは見ていた)ことで、今は自分がやりたいと言ってはいけない感じだと空気を読んだのか、あまりにもあっさりとOKしたBでした。給食は朝のおやつ時の約束通り、Cが配ることになりました。

 

・・・数日後・・・④

その日はBが休みで、トマトグループはAとCの2人だった。朝のおやつ時、今日はどんなおやつだろう?とおやつを覗きにきたAとC。すると A「なぁなぁ、Cちゃんコップくばっていいよ!A、きゅうしょくのときくばるから!」そう言ってとても楽しそうに2人で席についた。“また次がある”ということが分かり見通しを持ってやりとりすることが1歳児で出来るんだな~と保育者も感心してしまった。

 

・・・そして次の日⑤・・・

午後のおやつ。担任の一人がトマトグループでコップ配りはだれがするのか?の話をし終えたばかりの時。A「Cちゃんくばっていいよ~」(あら、またAちゃん譲ったんだぁ~1歳で自分から“譲る”って・・・Aちゃんすごいなぁ)と思った時、AはCの目を見て、A 「うれしい~?Cちゃん、うれしい~?」と聞く。(へぇ~、Cちゃんの気持ちそこで聞くんだ~)。Cは、どういう意味で聞かれているのか“???”と、あまり分かっていないような反応だったが、ただ小さく頷き、コップを取りに向かった。C「はい」とコップを渡すCに対し、Aは自然と A「ありがと」と言いました。

 

・・・『お手伝い』(お当番)を通して・・・

『お手伝い』を進めると同時に、子ども達の言葉のやり取り、気持ちの変化を追ってきた。初めは、『お当番』を通して、 “やりたい!”気持ちを引き出したり、友達と気持ちをぶつけ合いながら、グループの全員が当番を経験して欲しいという思いだった。“やりたい”気持ちがみんなに出てきて、興味を持ち始めた所で『お当番表』を作ろうかと、話し合っていました。(めくって、順番を知らせ、目で理解出来るもの)

そして、担任間では日々、その日の『お手伝い』の振り返りと、それぞれのグループの状況を伝え合うようにしてきた。もちろん、『お手伝い』のペースや意欲の差はグループそれぞれにあり、全グループがトマトグループのように常にヤル気に満ち溢れているわけではない。ただ、毎度のごとく担任はトマトグループに手こずりつつも、子ども達の気持ちに寄り添い、話をしてきた。その中で、気付いたことがある。いつもは“自分!自分!”と全面に自我を出すAのような子の中に、“自分が譲ることで友達が喜ぶ”といった思いやりの気持ちがいつの間にか芽生えていた、ということ。そして“友達が喜ぶ姿は、またさらに本人にとっての喜び”へとなっているということ。でも、もしかしたら『お当番表』がないからこそ自然と芽生えた相手を思いやる気持ちなのかもしれない。一方で実は、この年齢の子でも、相手を喜ばせたい気持ちや思いやる気持ちをしっかり持っているのでは・・・?とも感じた。

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という子どもたちの物語とそこに向き合う保育者集団の姿です。これ、1歳児です。

この頃から物事には相手があって、互いに異なる思いをもっていることを確かめる体験していく、このような保育を通して、問題解決は話し合う事であることを学び、話し合うための表現力を高める必要性を個々の子どもが自分自身感じ取る、これが、ななこども園の中心に据えられた保育の目標です。

2017年1月6日 金曜日

≪ユナタン:28≫ at はっとこども園
2歳児&5歳児「交流の日」の教育効果

平成28年12月26日   理事長 片山喜章

今年度、4月より毎週木曜日に、5歳児かもめ組と2歳児なぎさ組が交流を行なっています。きっかけは、2月の発表会の後からはじまる移行期保育で見られる2歳~5歳が交わる豊かな姿でした。ならば、4月から1年を通して定期的に行なうと、子どもたちはどんな姿になるだろう、と楽しみだったからです。夏頃まで、定番活動としてリトミック、二人組を組み合わせた「ふれあいあそび」をメインに行ないました。

4月、初めての「交流の日」、半数以上の2歳児は、物怖じし、先生にしがみつく子や隅っこで固まってしまう子もいました。「一緒にしよう」と、とびっきりの笑顔で誘いに行っても「いや!」と断わられ、かもめ組の子どもたちは、たいそうへこみ気味でした。そんな子どもたちの姿を見て、逆に「これからどんな風に変わっていくのだろう」と期待を膨らませる担任4人でした。 「交流の日」を重ねると互いに名前もしっかり覚え「一緒にしよう」から「○○くん、しよう」と名前を呼んで誘うようになり、交流会らしい雰囲気になりました。
30分間ほどの活動の中で微笑ましく手をつないだり、触れ合ったりしながら、徐々に、なぎさ組も楽しく参加し、かもめ組も得意気な表情を見せるようになってきました。

【2歳児a君の変化】
交流を重ねると、夕方、2歳児のお部屋に遊びに行きたいというかもめ組の子が増えてきました。かもめ組の子どもたちは、「交流の日」が始まる前になると 「今日は○○ちゃんと遊ぼうっと」など期待を込めて待つようになりました。活動内容を基本的に毎回、同じ内容にしていたために、かもめ組の子どもたちは見通しを持って、なぎさ組の子を支えることができます。優しく話しかけたり、ちから加減を考えたり、クラス活動では見られない姿が引き出されました(スゴイ!)。ある日、2人組の活動で、手をつながずに隅っこにいたなぎさ組のa君に対して、担任が手を引くと、その手を振りほどいて嫌がりました。しばらく観察していると、5歳児のBちゃん、Cちゃんが、a君を気にかけながら、楽しそうに遊んで見せたのでした。特に誘い込もうとはせずに、楽しそうにやって見せてくれる姿に、a君は、この2人の姿に見入っていました。

a君は、「交流の日」と聞くと顔が引きつるほどドキドキしていたようだった。「交流の日」は決まって隅っこでジッとみんなの様子を見て、5歳児が「aくん!」と誘いに来ると目をそらし、先生にしがみつき目に涙をためることが続きました。「交流の日」が終わったある日、5歳児が話し合っていました。
D「a君いっつもしてくれへんよな?」 E「誘ったら泣いちゃった」 F「よし!誰がa君と一番仲良くなれるか勝負しよう!」。そんな男児の会話を耳にしました。
その次の「交流の日」では、タイミングを見図り、そっと、近づいてみたり、a君の好きなものをリサーチしたり、嫌がるa君の近くであえて楽しそうに二人組遊びをして見せたり、と、5歳児の中で誰がa君の心をつかめるか、あの手,この手と試すことをクラスの子の何人かが楽しんでいるように見えました。
8月の「交流の日」は、フープを使った電車遊びをしました。毎回のように「a君!電車に乗る?」と声をかけるF君に対して、この日は少し考えてから、コクンとうなずいてフープの電車に乗ってくれました。
F君は、普段より慎重に運転手さんを務め、お客さんの満足度をあげていたようです。「すごい!a君が一緒に遊んでる」と.なぎさ組の担任は驚いて喜んでいると、他のかもめ組の子どもたちも同じように驚いたようです。a君の表情も少し和らぎ、この「電車」がきっかけで、大きく前進したのでした。なぎさ組が帰った後、「F君!すごいやん! a君、電車に乗ってたな」とクラスで大絶賛されたF君でした。

9月のお散歩の時も、F君は、「一緒に手をつなごう」と誘い、公園まで一緒に歩きました。表情は、ニコニコです。その日を境にお兄ちゃん好きになったa君は、他のかもめ組のお兄ちゃんとも園庭やお部屋でよく遊び、時には上手に甘えるようにもなりました。2歳児の子どもにとって、3つも年上のお兄ちゃんは怖い存在でもあります。けれども5歳児なりに、a君を気づかい、受容し、うまく誘いこんだことで、a君は心を開き5歳児の子どもたちは、a君とかかわる過程で、極自然に“やさしさ”が引き出されたのだと思います。

【5歳児、E君の異年齢児へのかかわりで変化した姿】
「交流の日」として、散歩に出掛ける前日、担任は子どもたちに「明日、なぎささんとお散歩行くよ」と伝えました。散歩当日の朝、「先生がいい」と、これまで5歳児と手を繋ぐことを頑なに拒否していたなぎさ組のg君に、E君は、「g君のかっこいい靴はどれかな~?」と職員顔負けの寄り添い方でさらっと誘い、靴を履かせて手を繋いでくれました。引率者たちはその様子を見て「すごい!」と魅了されました。5歳児のE君は3月生まれ。クラスではケンカをしても泣いてしまったり、あまり目立つ存在ではありません。E君にとって「交流の日」は、なぎさ組の子に頼られたり、先生たちに任されたりすることも多く、今も張り切っています。

この頃になると、かもめ組の中では「E君は、なぎさの子のお世話が一番上手だよね」「E君の周りにはいつもなぎささんいっぱいおるよな~」という声が聞かれるようになり、E君自身も「交流(の日)」によって自信をつけるたようです。みんなから「すごい!」と言われれば言われるほど、かかわり方や声のかけ方が巧みになっているように感じます。その頃来ていた実習生も「クラスでは怒ったり、泣いたりするE君なのに交流の日はいい顔ですね。話し方や誘い方が、私よりも上手で勉強になりました」と話してくれるほどでした。
同年齢での顔、異年齢での顔。大きく異なる自己を発揮するE君にとって、「交流の日」は格別の意味があると思います。3歳児から5歳児の幼児の異年齢とはまた違う関係性が生まれているように実感しています。2歳児も5歳児も、同年齢では味わえない心情、言動、表情を現わしてくれます。

また担任も同年齢クラスだけの担任をしていると、子どもの見方が偏ってしまうことに気づきます。
今年度、1年を通して交流する中で、自分のクラスの子どもたちの成長や心の変化を、2歳児の担任も5歳児の担任も互いに同じように感じ取って、視野も話題も広がったことも収穫でした。先進国では当たり前の「異年齢児保育」 も日本の中では、まだまだ、少数派です。どんな社会も職場も異年齢集団なのに「教育界」だけ同年齢に偏っています、ここが日本の教育の課題でもあります。【資料提供:福田侑真】

2017年1月6日 金曜日

 ≪ユナタン:28≫ at 世田谷はっと保育園

おひさまきらきら物語

平成28年12日22日  理事長 片山喜章

〔どこから持ってきたの?〕

おひさま組、1歳児のある朝のことです。おままごとコーナーでマツコとウメコが一緒に遊んでいました。担任もそこにいました。そこに割り込むようにモモコがやってきて、「これ読んで」と一冊の本を持って来ました。それは、保育室を出た先のエントランスの隅の《くつろぎ絵本コーナー》に置いてある「写真本」でした。(どうして、この本をここまでもってきたのだろう?)担任は、不可思議に感じつつ、モモコに「この本なら絵本コーナーに行って読もうか!」と声を掛けました。

が、モモコは「やだ、ここがいい」と言うので、おままごとコーナーの横で読むことにしたのです。

その本は4、5歳の男の子が好みそうな『カイコ(幼虫~サナギ~成虫)』の本でした。カイコの成長過程が写真になっているもので、読んであげるというより、リアルな写真を見て、あれこれ想像をめぐらすのに適した本でした。担任の横に座ると、モモコは、自分でページをめくりだし、まるで、この本のおもしろさを担任に知らせたがっているようでした。

 

〔食べさせてあげる〕

モモコは 「ごはん食べたら大きくなるんだよ」と虫の成長が描かれていることを理解しているようで、ページをめくるたびに 「ほら、(はらペコ)あおむしみたい」と担任に話をはじめました。

すると横で聞いていたマツコが、なぜか、おままごとで作ったごはんを持ってきて、器からスプーンですくって「はい、食べて~」と器用に写真の幼虫にご飯をあげ始めました。もう1人のウメコも同じように、「ウメコのも食べてね」と写真の中の虫にご飯を食べさせようとしました。モモコは、食べさせることはなく、ただページをめくり、「ほら、もっと大きくなったよ」 と成長した姿(写真)を語って、話をすすめます。あきらかに科学系の写真本に、1歳児の子どもが興味を抱き、「観察」を楽しむような「ごっこ遊び」をするような、摩訶不思議な時空のなかに誘い込まれた感じです。

 

〔食べちゃ、ダメ!〕

モモコがページをめくり、マツコとウメコがご飯を食べさせている時、ジョンが登園してきました。そこに担任がいたからなのか、3人の女の子が何だか楽しそうにしていたからなのか、ジョンもすぐさまかけよって、仲間に入りました。早速、参加です。いつも手にしているお気に入りのスプーンを持って座りました。が、器は持っておらず、2人が食べさせている(お世話している)姿を、じっと見ていました。すると突然、それまでご飯を「食べて~」と言っていたマツコが 「食べちゃおう」と虫を食べる動作をし、ウメコも同じように 「食べちゃおう」 と食べるマネをしはじめたのです!

モモコは二人の様子をじっと見ていましたが、二人の振る舞いを静観していました。ところが、(正義感の強い)ジョンは「食べちゃダメだ~」と声を荒げました。その後も、マツコとウメコは、まるでジョンをからかうように「食べちゃおう」と言い、ジョンは「ダメだよ」と必死に言い返し、2人はジョンとの掛け合いを楽しんでいるようにも見えました。「ダメヨ」「ダメ」「ダメ」とジョンが言っても、2人がしつこく 「食べちゃおう」をくりかえすので、ジョンはとうとう腹を立て、我慢出来ずに、ウメコを叩き、そして言い合いになりました。ウメコはギャーと大泣きしますが、それでも尚、「食べる!」と言い張ります。ジョンは「ダメなの!」とそのページを押さえて必死に守ろうとします。

善と悪のカテゴリーを飛び越えた葛藤劇あるいは対決シーンです。

そこで、とうとう担任が仲裁に入りました。「食べられちゃったら可哀想なんよだね」とジョンに言葉を添えてあげると「うん」と言って、押さえていた手を戻しました。ウメコの方もいつもなら泣き出すとしばらく引きずるのですが、その場ではすぐに泣き止みました。自分も本の中の虫のお世話をしていたせいか、食べるという自分の行いが自分の本意でなかったからか、よくわかりません。

そして、泣き止んだウメコは、再び、成長してきた虫(写真)にご飯を食べさせはじめました‥。

一方、モモコは、冷静にページをめくり、最終ページにたどり着き、 「わ~、ちょうちょ(カイコ)になったよ」と、嬉しそうにお話を終了させたのです。そろそろおかたづけの時間です。4人は落ち着いて、その場を離れ、おかたづけの時間を迎えたのでした。

この物語から食べる事と食べさせる事は表裏だと感じました。もし、これが林檎なら、ごっこ風にみんなで食べて“ああ、おいしかった”と楽しめますが、2人がお世話して、ごはんをごっこ風に食べさせてきた生き物を逆に食べようとするのは、不思議です。その姿に怒るジョンの感性は、とても素敵だと思います。ウメコとマツコの心の中に分け入ってみました。きっと愛しさを感じるから食べさせてあげた(お世話した)のでしょう。逆にお世話をしたことで、愛おしさが募り、愛おしさ故に、我が物にしようと気持ちが動いて、食べるという行為で表現したのでしょう。

まさに人間の本質(豊かさ)を垣間見た感じです。しかし、もしも、ジョンが最初から食べさせる仲間の内にいたなら、どう振る舞ったでしょう? 食べる仲間になったかもしれません。もしも、ウメコが、後からやって来て、お世話をしないで、友達が食べさせる姿を眺めるだけで、仮に、ジョンが食べようとしたなら、「ダメ!」と怒りを感じたかもしれません。1歳児の世界は、何とデリケートなのでしょう!というよりも、この子たち自身の感性(知性と情緒)は、何と、豊かなのでしょう?

このような姿を引き出した。この保育園の環境と先生たちは、何と、すば〇〇いのでしょう?

食べさせる事も食べる事もしなかったモモコって? 彼女は、どうして『カイコ』の本をわざわざ持ってきたのでしょう。様々な仮説が味わい深く広がります。    (資料提供:関戸真理子)

2017年1月6日 金曜日

ユナタン:28≫ at もみの木台保育園

任務遂行で自己抑制!?

平成28年12月22日   理事長 片山喜章

2歳児クラスは、満三歳を迎える時期ですから自我の芽生えが強くなる頃です。園生活においても子どもどうしのトラブルが多くなります。自我を出し合って子どもどうしがぶつかり合う姿は自然な事ですが、同時に自我を抑制することも保育(発達)として大切なテーマになります。いわゆる我慢する態度のことです。我慢する力(抑制機能)を育むには、保育園では、興味・関心をそそるような遊び環境を整えて自分の好きな遊びを選んで没頭したり、簡単なルールのある活動(ふれあい遊びなど)を通して、仲間と折り合いをつける経験を重ねることだと解しています。

2歳児そら組の子どもたちも、友達とよく遊んでいる時ほど、思い通りにならない時には、手が出たり、つかみ合いになったり、その度、保育者が、お互いの気持ちを確かめ合うために中に入って話をしています。やって良い事、悪い事を伝えるのではなくて、(そんなことは百も承知しています)、互いの気持ちを聞いてあげることが自己抑制力を高めるポイントです。Aくんも、普段、自分の思いが通らない時には、友達とぶつかってしまうことが多い子です。

その日は土曜日でした。土曜日は、0歳児から5歳児まで20人くらいがいっしょに過ごす特別な日です。Aくんが園庭遊びをしている時、4歳児ほし組と3歳児つき組の4人くらいの男の子がヒーローごっこをしていました。各々が自分の好きなキャラクターになって変身ポーズをしたり、魔法の言葉を唱えたり、仮想の敵と戦う真似をして走り回っていました。仮面ライダー、ゴレンジャー、ウルトラマン、月光仮面など、ヒーローごっこの愉しさは昔も今も変わりはありません。ヒーローに成り切ることで、自分の有能性を自分で表現したり、正義感を発揮したり、一見、乱暴そうに見えるこの遊びには、子どもが健全に育つうえで、大切な要素が含まれていると理解できます。

この日、普段、いっしょに遊ぶメンバーではなかったので、自分のキャラクターを相手に説明したり、場面の設定をみんなで相談しながら遊びを続けていました。Aくんは、その様子を近くでじっと見ていました。あまり楽しそうなので思わず、彼らの後ろについて走り出しました。ヒーローたちも特にAくんのことを嫌がることもなく、仲間に入ることを認めていました。けれども、所詮、いっしょに遊ぶ楽しさのレベルが異なります。Aくんが嬉しそうな表情でヒーローになりきってみせても“志向”が違うために、ひとり浮いた感じで、物語もチグハグになっていきました。

それでもAくんは、ひとりでポーズをとって愉快にくるくる走りまわって参加しているように見えました。けれども、お兄ちゃんたちにとっては、だんだん疎ましい存在になっていったのです…。

すると、その時、4歳児ほし組のBくんがAくんのところに駆け寄って、そして言いました。

「ちょっといい?」とふつうに話しかけた後、急に「いいか、おまえは、ここをしっかり守っているんだよ!」と隊長口調で話しだし、近くにあったフープの中にシャベルを3本入れて、「これを守るんだ!」とAくんに任務を伝えました。任務を託されたAくんは、力強くうなずきました。そしてAくん以外の子どもたちは、颯爽とその場を立ち去っていったのです。

その後、3分くらい、周りに誰もいない状態が続きました。それでもAくんは、その場所を離れないで真剣な目つきでシャベルを守り続ける任務を果たし続けました。このとき、ヒーローたちの戦いの場所は、別のところに移動していたのです。きっと、Aくんの心の中では、(憧れの)お兄ちゃんたちに託されている、という使命感がはたらいていたのだと思います。動き回りたい2歳児本来の欲求をAくん自身が主体的に抑えて、その場を動かず我慢しているように見えます。この状態をAくんに脳科学的な意味での抑制機能(教育効果)がはたらいていると、私は捉えるのです。

それからしばらくして、Aくんは自分なりに“任務”を果たし終えたと考えたのでしょう、ごく自然に砂場の方に行って、違う遊びをしはじめたのでした。普段のAくんは、同じクラスの子と“戦いごっこモドキ”の遊びをするとき、必ず、戦う主役になって、時には乱暴に振る舞うこともありました。しかし、この日はBくんに言われたこと(指令)を理解し、忠実に役になりきることを楽しんでいるように感じました。まさに、異年齢保育が織りなす姿で、年上の子たちとの遊びにうまくはまった満足感がAくんの表情から伺い知ることができました。

一方、Bくんは、普段、自分の主張を強い言葉で表現する子です。相手に疎まれたり、反発されてしまうことがよくあります。そこにいた保育者の目には、当初、Aくんの動きがジャマだなと感じながら許容したものの、ほんとうに遊びの邪魔になってきたので、彼なり考えてAくんに言葉をかけたように映りました。しかし、クラスの友達に接する時のように、ストレートに「ジャマ!」と言うのをためらったように思います。そこで年下のAくんを傷つけないように考えた末、この“任務”を授けたのだと思われます。Bくんもまた彼なりに抑制機能をはたらかせたのだと考えられます。

日常的な異年齢での生活は、3歳児~5歳児です。しかし土曜日の少人数の中では0歳児から5歳児までの異年齢保育になります。そのような状況(0歳~5歳までの少人数の異年齢保育)がもたらした成果であると言えますが、普段、4歳児ほし組の生活で友達とぶつかって、嫌な思いをしたり、辛酸をなめたりした経験がもたらした結果であるとも考えることができます。その現場に居た2歳児そら組の担任は言います。「2歳児同士だったら、もめてしまうような遊びが子ども同士でうまく話を進めていったところがとても印象に残った」と。【資料提供:野志美由紀】

2017年1月6日 金曜日

ユナタン:28≫ at 池田すみれこども園

1歳児でも子どもは子どもから学び育つ

平成28年12月22日   理事長 片山喜章

保育、特に乳児保育といえば、「先生は子どもをお世話する人」「子どもはお世話される人」という固定概念が社会一般に限らず、保育者のなかでもそう思う人がいます。その一方で昔から「集団作り」という保育理念があって、0歳児から集団が機能する、つまり、子どもどうしが影響をあたえ合いながら育っていくという考え方で実践している園もあります。

最近は保育者との愛着関係を基盤に、子どもどうしが学び合って育っていることが、脳科学の分野で明らかにされてきました。問題は保育者や保護者がそのような「事実」に気づいて、実践しているか、どうかです。もちろん池田すみれこども園の先生集団は、子どもは子どもからより多くを学び、子どもどうしが影響し合って育つことを基本認識として、理解しています…。

1歳児赤組のAくんは、とても活発で動くのが好きな男の子です。言葉も多く、お友だちとの関わりもたくさん見られます。しかしその一方で、自分の思い通りにならないと、すぐに泣き崩れてしまい、切り替えるのに時間がかかります。そんな時、先生たちは落ち着かせようとなだめたり、抱っこしたり、あの手この手でAくんにかかわります。そんなAくんの姿を見て、特にここ最近、周りの子どもたちの姿に変化が現れはじめました。

ある日、玩具の取り合いがあって(Aくんが横取り)、思い通りにならなくて泣き崩れてしまいました。担任はすぐに駆け寄らず、あえて少し様子を見ていました。すると、そこへBちゃん、Cくんが近づいてきて、Aくんの目をみながら、何やら慰める姿が見られました。あれだけ泣いていたのに、Aくんは泣き止みました。Bちゃん、Cくんとどんな会話をしたのか、言葉としてよく聞きとれなかったのですが、とにかく泣き止んだのです。これはAくん自身に「理解」や「納得」する気持ちが内側から生れたからだと思われます。脳の抑制機能がはたらいたのです。

駅やスーパーでダダをこねて泣きわめく我が子を、無視したり、怒鳴り散らしたりする母親の姿をよく見ます。悪循環になるのはわかっていても、どうすればよいのか、わからなくて困っている親はたくさんいると思います。叱られても恐ろしいだけで抑制機能は、はたらかないのです。

今回、Aくん自身の中にある“泣き止もうとする力(抑制機能)”を引き出したのは、お友だちです。Aくんが泣き崩れる姿をいつも、いつも見ていたBちゃん、Cくんは、Aくんのことをかわいそうに感じて近寄ったのだと思います。他者の痛みを感じて、何とかしてあげようとしたのだと思います。そんな2人のやさしさが伝わったからこそ、Aくんは「納得」して泣き止めたのでしょう。

Aくんは午睡明けに一番崩れやすく、通常、担任が一人ついて、落ち着くまで寄り添っています。ある日、いつものようにAくんはなかなか起きられず、ベッドで横になったままです。

そしていつものように担任が向おうとすると、先に仲の良いDくん、Eくんが近づいてきました。担任は、この前回の事もあったので、試しに「Aくん、起こしてあげて~」と言ってみました。すると2人は、Aくんのそばに行って、ベッドの左右に座り込んで担任がするように、Aくんをゆすって「おきて~」と起こし始めました。担任が言うより使命感をもって、「おきて~」と言い続けます

しばらく様子をみていると、Aくんがむくっと起きました。そのとたん、2人は「Aくん起きた~」と嬉しそうに言いました。Aくんもいつもとちがうパターンに新鮮さを感じたのか、泣き出すこともなくそのまま起きて着替えをはじめました。1歳児といえども、子どもが子どもをお世話する方がはるかに効果は高いことが伺えます。その光景に、担任も驚いて、日頃、言葉では理解している『子どもを育てるのは子ども』という文言がその瞬間、全身に浸み込んだ、とのことでした。

その後、三人は、なかよく手を繋いでトイレに向かいました。

また、サーキットに行くときのことです。Aくんは、サーキットに行くタイミングが遅れてしまい、手を繋ぐ相手がいなくて、「手を繋いで行きたかった」と訴えて泣いていました。サーキットをしている最中も涙は止まりません。すると、その姿を見て、Fちゃんがさっと駆け寄ってきました。何やら真剣な表情で話しかけています。それでもなかなか立ち直れないAくん。すると、EちゃんがDくんを手招きしました。そこへDくんがやってきて、二人でAくんを囲んでまた何やら真剣な表情で話をしています。その様子を担任はじっと観察し、見守っていました。

もし、観察していなければ、この場面では、「ちょっと、ちょっと、Aくん、Dくん、Fちゃん、そんなとこで、何してんの!」「いま、サーキットするときでしょ!」と注意してしまう可能性(危険性)があります。「子どもの行動にはすべて意味がある」のですから、その意味を観察しながら、理解するのが保育者(親)の務めです。注意や叱責するのは、理解し共感した後にする事です。

すると急にAくんの表情がぱっと明るくなり、三人でなかよくサーキットに向かう姿がみられました。そこで何が話し合われたのかはわかりません。しかし、保育者が寄り添ってなだめたり、促したりする方法とは別次元の、この1歳児の子どもたちどうしで通じる方法でやりとりしているのだと推されます。まだまだ大人の手助けが必要な1歳児ですが、担任たちは、改めて子どもどうしのかかわりあいによって子どもは学び育っていくことを目の当たりにしたとのことです。

このような子どもを観察し、見守って子どもの力を感じる体験は、大人の脳をも成長させていると、新たな(知見)は語っています。(オキシトシンで検索)【資料提供:西脇芽衣】

2017年1月6日 金曜日

ユナタン:28≫ in みやざき保育園

 サラリーマン(?)ごっこ

平成28年12月15日  理事長 片山喜章

昨今、子どもたちの“ごっこ遊び”を見聞きしていると、時代の変化が映し出されて、面白く感じることがあります。例えば携帯電話が普及しだした頃は、小箱を片手に握りしめ、耳元にあてて、1人で話し込んで、時には頷いている姿も見られました。そして今は、スマホです。少し大きな平らな素材を片手に持って、睨みつけながら、もう片方の手で人差し指をしゃ~しゃ~と動かして検索気分に浸っています。この園で“ごっこ遊び”が深まる背景には、朝夕のコーナーと毎週火曜日のコーナーの日の活動が大きく影響していると思われます。私はコーナーの日を≪スーパーチューズデイ≫と名付けています。なかでも“ごっこ遊びコーナー”は、制作コーナーとリンクして、とても充実しています。深みがあります。保育園関係の見学者は感嘆し、驚愕します。

以前、私が事務室で他の先生たちと大事な話をしていると、ねじり鉢巻き姿の“お店の人”が、“おしながき”と“注文票”を持ってやって来ました。あれやこれやと本気で注文すると、まちがいなくその品物を届けてくれました。大事な話は中断です。お客さんになる方が大事ですから。

ある夕方のことでした。5歳児りんご組の男の子が数名、腕を組んだり、腰に手を当てたり、大人モードで話をしていました。近くに居た担任も、何となく仲間入りさせてもらいました。「おれは部長!」「ぼくは課長になる!」と言っていたので、担任は「社長はいないの?」と尋ねると「社長は1人の部屋でお仕事しないといけないから嫌だ~!」といって、誰もなりたがりませんでした。子どもたちのこの想い、本気なのか、わきまえているのか、それとも現在のサラリーマン気質を反映した台詞なのか、それは定かではありません‥‥。

(サラリーマンごっこと名付けているようです) サラリーマンごっこが始まると、子どもたちはお互いのことを「○○さん」と苗字に「さん」を付けて呼び合います。そして会話は敬語です。

「今日は夜中の2時まで仕事をしていかないとダメなんですよ~」とYくんが言い、面白いことを言うなーと思った担任は「家で奥さん待っているのにいいんですか?」と突っ込んで尋ねてみると「いいえ、ぼく、一人暮らしなんで!」と返ってきます(そうだったんだ~と担任は納得)。

それを聞いていた他の子たちは、すかさず「うちには息子がいますよ」「うちにもいます」と次々に“家庭”の話し始めたのです。「息子さんはおいくつですか?」と担任が尋ねると、「うちは3歳です」「うちは6歳!」「うちには息子と犬がいるんですよ」と会話が広がります。だれも笑ったり茶化したりしません。真剣です。もしも、“ごっこ”に興じる子どもたちのほんとうの“ご家庭の情報(事情)”が、リアルに現れ出たら、どうしよう!? はらはら、どきどき、そして、わくわくの担任でした。

すると突然、Tくんが「じゃあ今日はこのあと飲みに行きましょうよ~」とみんなを誘うと「いいですね~」「行きましょう」「そうしましょう」とみんなで飲みに行くことになりました。飲み屋さんって、どこだろう? と自分も飲みに行きたくなった担任は、いっしょに連れていってもらうことにしました。

辿り着いたのは「科学コーナー」でした。「科学コーナー」のテーブルを囲んでみんなが座り、「ビール1つ!」「私も!」。そして「やきとりをください!」「ぼくはつくねをください!」「ぼくは皮!」と次々に注文しました。ここは、焼き鳥屋だったのです。けれども、店員さんはいません。

が、「かんぱーい!お疲れさまでしたー!」と発声があがり、飲み会が始まりました。飲み会が終わるころには、Tくんが「今日は“わたし”がごちそうしますね!」と言い、Sくんが「では次は“わたし”がごちそうしますね!」という会話があり、帰っていき、また次の日、この“ごっこ遊び”は出社するところから繰り返されていました。

お父さんといっしょに飲み会に行ったことがあるのか、ドラマの影響なのか、子どもたちはよ~く知っています。サラリーマンごっこに参加した担任は、子どもたちの姿に感心し、そして、いっしょに楽しんでしまいました。この遊びがすすんでいくと、男の子たちみんなが自分のことを「わたし」「わたし」と呼んでいることに担任は面白くて吹き出しそうになりましたが、同時にこのようなやり取りが長く続いていくことに不思議さを感じざるを得ませんでした。子どもたちは、私たちが思っている以上に大人の言動をよく見聞きしています。このエピソードがスゴイところは、それを友達と共に再現しようとし、実際、マジにドラマのように演じ切るこの子どもたちの姿です。これこそ、真の幼児教育の成果である、と大袈裟ではなくて、心底から私は感じ取ることができます。

いま、国は大規模な教育改革を進めようとしています。けれども、核心的なところがおかしいです。乳幼児期の教育・保育はとても大切であるという文言は、あちこちで耳にしますが、保育園や幼稚園の教育が小学校教育の下請けという発想が為政者の頭の中にも多くの大人たちの胸の内にも存在することが残念です。このような豊かな遊びや協同性のある活動を通して、読み書きや計算の術を学ぶことは同時に、ポジティブに生きている経験でもあるのです。

この保育園で繰り広げられているコーナーでの遊び、特にごっこ遊びにおいては、「見立てる力」から「成り切る力」に発達している事が伺えます。彼らは、サラリーマンごっこを楽しみながら、同時にそれが途絶えないように頭(知力)を使います。そして、それが知的な発達を促していると私は捉えています。絵本やお話を読んでもらってイメージを豊かにする日常、家庭やテレビの影響を受けたことを再現する活動、これらは、コーナーで自分の好きな遊びを選んで、没頭する経験とあいまって、教育・保育の根幹を成すとご理解いただきたいと願います。今回のサラリーマンごっこは、あらためて日頃の保育の賜物だと思いました。   【エピソード提供:川崎かおり】

2017年1月6日 金曜日

ユナタン:27≫ in 種の会

~ 師走を迎えて思うこと ~

                     平成28年12月6日:片山喜章(理事長)

2016年(平成28年)は、激動の年、大転換期の序章として世界史に刻まれるのではないかと推測しています。皆さんそれぞれが「ゆく年」を思い返し、「来る年」に思いを描くこの「師走」に、多くの保育者は「はっぴょうかい」について、あれこれと思いをめぐらせています。もう既に、子どもたちと話し合いをはじめている園もあります。

 

(ご存知のように?)一昨年から「保育環境評価スケール」という冊子を用いて、各園、年4回、保育環境の評価を受けています。各園から毎回2名、評価者として出向きますから関東3園で12回、関西4園で16回開催されます。相互に訪問して数値化して評価し合いました。今年の4月からは、訪問回数は同じですが「コーナー・ゾーン」に特化した法人独自の指標を設けて実施してきました。

 

自園の保育環境や方法を改善するには「他者から評価してもらう事」は効果的です。しかしそれ以上に他園を訪問し、その園のために!自園の事は“棚”に上げて厳しく指摘すると一層、自園に弾みがつく事もわかってきました。『他人の振り見て我振り直す』を越えて「他人の振りを見たら適切に指摘する!」と「我振りの直りも速くなる」のです。

 

この“指摘し合う文化”が媒体になって「コーナーやゾーン」について、各園の知見やウンチクはぐんと深まって、議論のレベルも高まります。そして最近、根本的な子ども観や保育の仕方が底上げされた気がします。少し驕って言うなら、この国がめざす教育・保育の形を先取りしたものになってきたと言ってよいと思います。もちろん人によって違いはあり、各園各様に課題はありますが、年齢別のクラス活動においても、自然に、子どもの言い分や意見を取り入れる《保育風土》が各園に醸成されつつあると評しています。

 

従来型の教育・保育を端的にいえば、先生が課題やテーマをあたえて子どもたちは一斉にそれに取り組むというもので、広く一般的に周知されている日本式の教育の姿です。先生が期待する答えを探したり、みんなが同じ手順で同じような物をつくる事で安心したり、一見“まとまり感”があるようで、先生も子どもたちも心地よいものでした。しかし、時代の変化と共に心地よい状態がどんどん崩れだしました。先生が教えた事を学ぶ教育が徐々に機能しなくなり始めました。「小1プロブレム」「学級崩壊」と称されるように、教師集団も苦悩し、こだわりのある子ほど適応しづらくなってきたのです。

 

この「状況」をふまえて国もあれこれ善後策を打ち出します。かつての「ゆとり教育」(もう少し試行すべきだった)や現在、佳境に入っている「アクティブ・ラーニング」はその現れです。しかし私自身、正直、期待できないのです。それには理由があります。1つは、従来型の教育や保育に変わる「新しい教育観」は圧倒的多くの人たちに理解されづらい現状があります。学校だけでなく社会全体として“子どもの人権”に対する意識が成熟しているとはいえない現状もまた大きな要因だと思います。逆に子どもの安全・安心のための大人の心配りが時には子どもを庇護し過ぎ、自立を阻む場合もよくあります。

 

もう1つは、私たちの園の「5歳児の日々の学びの姿」と「小学1年生の授業風景」の差異があまりにも大き過ぎることがあげられます。5歳児になると小学校に進級するために!机に向かって!先生の言うことをじっと、ずっと聞ける姿が求められます。なので、現在、園によっては、5歳児だけ「ワークの時間」を設けるなど、各園でそれなりの対応はしています。しかし、本来、そこが逆さにならないと「教育改革」は果たせない!と思います。つまり、小学校の先生方が頻繁に園を訪れて5歳児の保育や姿を実際に見て、私たちと何度もなんども語り合って、学校での授業(特に1,2年生)の形態やすすめ方に反映させていただく、そんな日常を作り出せるように私たちもがんばります。

 

「知識」とは、かつて「覚える事」でしたが、今ではネット等で「検索する態度」を身に着ける事であると言われています。“みんな違って良い”のにクラス全体を上から1つにまとめようとする考え方が保幼小を問わず多数派ですから改革には困難が伴います。子どもたちに問題やテーマを投げかけ、子どもどうしが存分に話し合うと互いの違いを感じ取ったり、弱点を補い合ったり、個々の子の眠っている“寛容さ”が能力として引き出されると考えます。議論を存分に交わす習慣を会得すると、辿り着いた答えに異論であっても納得が生れまるものです。正解を知ること以上に、1人で、あるいは何人かで正解を探し、仲間と納得の度合いを深め合う事が「これからの教育」であると確信します。

 

「コーナー・ゾーン」による保育は、自分で遊びを選びます。誰しも選択を迫られる事は人生の節目、節目に訪れます。自分で選んだ遊び(学び)に没頭する。この経験をくりかえし積み重ねることが“判断力”や“向上心”の土台づくりになると考えられます。このような保育を日常的に取り入れると年齢別のクラスの保育も変化します。例えば、クッキングや誕生会の「プロジェクト型保育」、運動会の「練習プロセス」などにおいて、子ども主体の教育・保育がクラスの保育にも浸透し、定着しつつあります。

ということで、年明けから本格化する「はっぴょうかい」の取り組みが、いかに子ども主体で、子どもたちが「納得」しながら展開されるのか、大いに期待されるところです。