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片山喜章のページ ~思い・願い・提言~
2016年7月31日 日曜日

≪ユナタン:20≫  at はっとこども園
~ 後味バツグンの隠し味 ~

平成28年7月21日  片山喜章(理事長)

 毎年、恒例になっている5歳児かもめ組のカレークッキング、かつて「やりきるクッキング」と称していました。グループのメンバーだけで、準備から後片付けまでやりきる保育です。
多くの子どもは、ジブンが、じぶんが、自分が、と主役意識をあらわにして、具材を切ったり剥いたりします。そこでモメて、トラブルになることがよくあります。“あ~、このガサついた姿は、はっとらしいな~”と以前なら苦笑していましたが、今は“これぞ、子どもの姿! 幼児はこうでなくっちゃ!”と本気で思えるようになりました。それぞれの思いを煮込みながらクッキングの用意をして、実際、作って、食べて、後片付けをする、その経験を、同じメンバーで、同じようにくり返す。この教育的意義をぜひ、ご理解いただきたいと願います。

1回目(6月8日)、こんな事がありました。Aちゃんが物怖じして、参加しようとしません。
何が原因なのか、担当の先生もよくわかりません。例え、やりたくなくても、させようとするのが日本の保育・教育の実態であり、保育者気質だと思います。もし、保護者が知ったら、お家に帰ってから「Aちゃん、どうしてしなかったの!」「ダメじゃ、あ~りませんか!」と叱責まじりの励ましを受けることは容易に想像することができます。

そこで、担当の先生は、彼女とあれこれ、話をして、Aちゃんは、同じグループのメンバーが、クッキングをしている様子を見学することになりました。「見る」という「参加」の仕方は、全くポジティブではないね~と、以前なら、そう感じるところですが、今は、“これも子どもの姿!”“幼児期は、これでよい”と本気で思えるようになりました。

クッキング保育に限らず、様々な協同的活動で大事にしなければならないのが「振り返り」の時間です。これは、はっとこども園のルーティン活動と言って良いと思います。何かに取り組んだ後、本の部屋をつかったりして「振り返りタイム」を設けます。ここは、以前も、今も変わらない、はっとこども園のすばらしいところです。
グループごとに集まって催される「振り返りタイム」では、「困ったこと」「なるほど、と思ったこと」「上手くいったこと、いかなかったこと」を話し合います。子どもたちも慣れたもので、「振り返り」のなかで出てくる意見には“的確さ”や“鋭さ”があります。このような取り組み、そして、このような経験が「小学校へいくための有意義な準備」とご理解ください。

「振り返り」では、Aちゃんは、何も発言せず、ただ聞いているだけの「参加」でしたが…
ところが「次は、みんなと一緒にクッキングがしたい」と、「振り返りタイム」が終わってから、担当の先生にこっそり、伝えたのでした。

2回目(6月15日)のクッキングの前日、Aちゃんのことが気になっていた担当の先生は、「明日は、前と同じカレーを作るよ。Aちゃんもみんなといっしょにしようね」と軽く、実は、恐る恐る声をかけました。すると、Aちゃんはにこやかな表情で「うん。」とうなずきました。
その瞬間。担任は、思わず、心の中で“バッチグー”(古い)と叫んだのでした。

当日、クッキングが始まり、担当の先生は、「前は、Aちゃん、みんなと作れなかったけど、今日は、みんなと一緒にしたいんだって」と話をしました。少しお節介かな、と思いました。
すると、Bちゃんが「Aちゃんってさ~、お料理、むっちゃ上手やねんで~。な~、Aちゃん」と応えてくれました。Aちゃんの方を見ると…、嬉しそうに笑顔を返していました。

子どもどうしで話し合って役割分担し(ここが教育)、人参を切るのが、CちゃんとAちゃんの担当に決まりました。AちゃんはBちゃんの言葉に勇気をもらったのか、Cちゃんは「人参、切ろうか?」と誘うと、「うん」と頷き、ピューラーを握りしめ、半分に切った人参をまな板の上にのせて、上から下へ、丁寧に、そして真剣に人参の皮を剥き始めました。すかさず担当の先生は「Aちゃん、上手やん! 猫の手も上手やん! 人参、いい大きさやん」と、取ってつけたような褒め言葉を放ちました。すると、他の子どもたちも「ほんまや、いい大きさや~」「ほんま、ほんま」と後に続き、Aちゃんをみんなで褒めて、認めるような発言が続きました。

このようすをどのように見ますか? 私はグループのメンバーの心遣い、やさしさを感じます。1回目の時、Aちゃんがうまく入れず、「見る」という「参加」だったことをグループのメンバーは知っています。1回目の「振り返り」の時も、無言だったことを知っています。けれども、今回は(前日の約束どおり)参加しました。そして、担当の先生は、Aちゃんのご機嫌を伺いながら、けんめいに促していました。メンバーの子どもたちは、そんな「空気」を感じ取ったのだと思います。Aちゃんのことを少し大げさに褒めたり、あえて“誘いの言葉”を投げかけたり、自然な感じを装いながら、メンバーはAちゃんを支えようと努めていたのだと思います。

BちゃんもCちゃんも私の前では、甘えたり、時には悪態をついたりします。しかし、ここ一番、仲間が窮地に居ることを察すると、自然な形でやさしさが発揮できる、この辺が、すばらしいところです。“これぞ、子どもの姿! 幼児はこうでなくっちゃ!”と改めて感じました。
もし、1回だけで終わっていたら…。このような姿を引き出した隠し味は「同じメンバーでのくり返し」という教育方法です。※ 8月は、ユナタンはお休みです 【資料提供:飯銅、溝上】

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≪ユナタン:20≫  at なかはらこども園
~ 「誕生会」で「成長」のプレゼント ~

平成28年7月20日  片山喜章(理事長)

 今年度の誕生会は、5歳児ぞう組の子どもが3人、もしくは2人一組で「司会進行」「誕生児へのインタビュー」「各クラスからの歌のプレゼント紹介」「手あそび」の役を担っています。
彼らは、誕生会の1週間ぐらい前から、月担当の保育者と打ち合わせを行ないます。打ち合わせ内容は、司会進行、インタビュアー、歌紹介などを“誰が”担うのか、その“人選”からです。そして、手あそびは“何をするのか”を決めます。司会進行やインタビュー、歌の紹介は「原稿」を使って行ないますから、担当する子の“ひらがなへの興味や関心”と結びつくだけに、その人選びに関しては、保育者の側も、興味や関心が生れます。

4月、子どもたちに伝えると、「やりたい!やりたい!できるし~」と自信満々の返事が返ってきて、3名の「お当番」が話し合いました。Aさんが「わたし、司会、しようか」と切り出すと、Bさんは「Aさん、ひらがな上手やし、おねがいするわ」と、この役を担うのに必要な力について理解しているようです。Cくんは、原稿を見ながら各クラスの歌の紹介をすることになりました。
次の日、3人と担当で、原稿の読み合わせを行ないました。Cくんが「原稿」を読みながら詰まる場面があると、すかさず、Aさんがフォローします。「これはね、○○ってよむねん」「もう一回やってみる?」なんとなく国語の先生と生徒のように聞こえて、担当も苦笑してしまいました。

「3人で進行するという大役をあたえる」「何度も考えながら練習する」、そんな保育(教育)を推し進めると、どんどん主役意識は高まって、本番をイメージする力を育みます。このような経験は、クリエイティブとは言えませんが、「社会性」を育んでいる、と言って良いと思います。
誕生会本番、途中で、Cくんが言葉につまってしまったとき、舞台袖(ベンチ)に座っていたBさんは、さっとCくんのところへ行き、隣で一緒にCくんのセリフを手伝う姿がありました。

4月の誕生会で、この「当番の姿」を目の当たりにした、ぞう組の子どもたちは、ざわつきます。「自分の番が来たら、どの役にしよう」、「うまくできるかな、どきどきするな~」と期待の言葉がわいわい飛び出しましたが、その中にリンとした志が芽生えているのが、感じ取れました。
5月担当のDさんは、このとき「次、自分はゼッタイ、司会になるんだ」と密かに心に誓っていました。そして5月の話し合いの時、真っ先に「司会をする」と名乗り出て、認められたのです。
5月のメンバーは、4月と異なる進行案を出しました。最初と最後の自分たちの立ち位置について、3人で舞台(巧技台)に上がるのではなく、1人ずつ上がってしようと。そして本番、その通りに行ないました。よく覚えていたな、と感心しましたが、子どもの能力は、そのくらい高いのです。それ以上にかなり時間を経ても、細かな点を変更しようと考えて実行した姿は見事です。
6月の役決めでは、「司会やりたい!」と1番に言い放ったEくんの勢いに押されて、あとの2人は承諾しました。けれども、いざ、はじめると、なかなか台詞(ひらがな)が言えません。
心配になったFさんは、Eくんの横に寄り添っていっしょに読みました。Eくんも自信をなくしたようで、自分が適役かどうか、戸惑っている様子が伝わってきました。Fさんも複雑な表情で、担当の保育者の方を眺めます。2人の気持ちは複雑です。Eは「やってみたい」といったものの自分にはこの役はできない、他の役ならできる。Fは、この役、自分にはできるが、Eには無理そう。けれども、面と向かっていうことはできない。大人社会の気遣いと同じです(必ずしも、良い事)とはいえませんが)。結局、担当保育者のサポートで、EもFも納得して役割を変えました。

そして今月、担当の子どもたちの資質が一層、高まります。「@@くん」ではなくて「@@くんです、って、ですを入れた方がよくない?」と保育者がシナリオに手を加えます。打ち合わせ中も「ほんと、このシゴト(進行役)たのしい、ずっとやりたかった」と悦に浸る会話もありました。
圧巻だったのは、誕生会当日、誕生児の1人が欠席していることが、開始後、判明し、インカムを通して、担当保育者に伝わりました。担当者は、進行中のGくんに耳打ちしました。台本にはない台詞です。Gくんは、「うん、わかった」と頷き、何事もなく「すくすくグループの○○くんは、今日は、お休みです」と、巧みに切り抜けました。さらに、すばらしい場面は続きます。

いつも乳児は持続時間の関係で、誕生児紹介の手前で入室します。誕生児の1歳児の子が「誕生児紹介」に間に合いませんでした。進行役のGくんが名前を呼んでも、その子はいません。会場はざわつきます。担当する保育者は、自分が入るべきか、それとも子ども任せでいくのか、先が読めない状況だけに迷います。しかしGくんは、臆せず、じっと入り口の扉の方に目をやります。ほどなく担任に連れられて、その子が入ってきました。それをみて、Gくんは、即座に、遊戯室入り口の方に視線を飛ばして、「たっちグループの○○くんです」とコールしました。(ナイスです!)

毎月の行事である誕生会は、先生が司会進行し、子どもたちも、それを楽しみにするのが、ふつうです。なかはらこども園(法人内に他に2園、取り組んでいます)では、5歳児の保育の一環として取り組んでいます。進行チームは毎回、数名ですから、担当する子どもたちにとっては、ある意味、運動会や発表会よりも、主役意識を強くもつ経験になります。また、1週間くらい前から子どもたちの話し合いをファシリテートするのは担任ではない保育者が輪番に行いますから、担任外のセンセイとの関係も強くなります。同時にファシリテートする力量も磨かれると思われます。

子どもたちの姿を注視していると、前回の進め方をアレンジして、オリジナリティを生み出そう
とする意欲や姿勢を垣間見ることができます。誕生児は、暦のうえで、1歳ずつ成長する姿をお祝いしてもらいます。5歳児の子どもたちは、友達の成長をお祝いする中で、主役経験を通して、さらに成長するようです。※ユナタンは8月はお休みです。【資料提供:横田、伊勢、鹿野、小松)

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≪ユナタン:20≫ at ななこども園
~ 経験を積み上げるための環境 ~

平成28年7月22日  片山喜章(理事長)

 4月に「フリーデイ」(遊戯室に多彩な遊び環境をコーナーとして設定し、幼児クラス全員がお昼まで自分が選んだ遊びをする。保育者もそれぞれの担当コーナーで援助する)が、スタートして以来、「積み木コーナー」には、5歳児ばら組のAくんが毎回と言ってよいほど居ます。
Aくんはクラスのお部屋で遊んでいる時も積み木に興じて遊んでいました。その姿は、職人さんのようです。「ビル」や「動物園」「駅」「お城」「駐車場」など、作品も実に多彩です。

そんなAくんの“腕前”は、クラス中に知れ渡っています。「フリーデイ」では、Aくんの作品を見て、同じばら組の子どもたちが「一緒に作りたいからいれて~!」「Aくんすごいな~!」「どうなってるん、これ~?」とAくんの周りには友達が集まり、Aくんも得意げに「これはな〇○やねん」「これはこうやってするねんで」と話をしてくれます。Aくんは、周囲からちょっとした「積み木名人」のような存在になっているようです。
一方、同じばら組のBくんは、「フリーデイ」の時は、その時々によって、選ぶコーナーはまちまちで、いろんなコーナーでまんべんなく過ごしているという印象がありました。
ある日のこと、そのBくんが、「積み木コーナー」にやってきました。休日に家族で動物園に行った印象が大きかったのか、「長さのある積み木」を使って、どんどんどんどん動物の部屋(檻?)を作って、広げていきます。その中にゾウ、キリン、馬などのフィギアの動物(付属品)を置いて、遊戯室の広い平面を活かして、さながら「アドベンチャーワールド」のような大きな動物園を作っていきました。※「積み木コーナー」には、動物や人のフィギアを備えておくことが「保育環境スケール」のなかでも記載されており、それに則って積み木コーナーを設置しています。

今までにはなかった「平面的な広がり」を展開するBくんの“腕前”に、他の5歳児も影響されて、「もっと広げようぜ」と言わんばかりに、Bくんと一緒に大きな動物園を作り始めました。
その様子を少し離れたところから見ていた数人の3歳児ゆり組の子も「おっ、今日は、いつもと違うな、なんか、おもしろそうやんか」と思ったのか「ナニ、これ~?」と興味を示してやって来ました。このコーナーは、もともと「木製電車&線路コーナー」と隣接しています。
この設定は、実におもしろく、以前、私が見た時も「電車」と「線路」と「積み木」が合体して「駅ビル」の中を電車が走る光景に出会いました。この設定をBくんはうまく活かしました。

そんなゆり組の子どもたちに、Bくんは「ここが、スタートで、ここから入っていいよ」と、誘います。彼らは嬉しそうに「電車」を走らせて「アドベンチャーワールド」のツアーを楽しみました。そして、その場の雰囲気は一気に活気づきました。
この活気にあふれた状況のなかに、Aくんは居ました。彼がどんな心持ちで、そこに居たのか、ふと気になりました。ふだん、自分の保育室で「積み木」に興じることの多いAくんは、狭いスペースなので拡げようがなく、積み上げて「立体的」なものつくることが日常でした。しかし、「フリーデイ」は、広いスペースのおかげで「平面的」なものを作って拡げる事が可能です。
逆に、ふだん「積み木」をしなかったBくんは「家族で動物園に行った楽しい経験」が「広いスペース」に触発されて、にわかに「積み木」に目覚めたのかもしれません。

次の週の「フリーデイ」。Aくんは「遊園地」らしきものをつくっていました。Bくんもいました。Bくんは、「動物が住むマンションやねん」と言って積み木を高く積み上げていました。
Bくんのマンションが、かなりの高さになり、積み木を一番上に置いたその瞬間、「カン、カン、カーン」と、その積み木が、音を立ててマンションの一番下まで落下していきました。

が、マンションは、崩れません。そのマンションには、いくつもの梁(はり)のようなものが組まれており、少々の衝撃では崩れないような“設え”になっていました。そしてまた、あの時のように、Bくんのところに、3歳児ゆり組の子も混じって、どんどん友達が集まってきました。
「カン、カン、カーン」、「動物マンション」に“積み木を落とし”の音が、何度も響きます。
その様子を見ていたAくん、うつむき加減で複雑な表情をしているように見えました。それでも、Aくんは、遊園地を作り続け「メリーゴーランドできたで~」と自分の“腕前”をアピールしていました。積み木職人の職員気質が、そう言わせたのかもしれません。

AくんとBくん、2人は、この経験から何を学んだといえるでしょう。私たち保育者は、この2人の子どもの姿から何を学んで、今後の教育・保育に活かすべきでしょう。
Aくんのプライドが傾いて葛藤したなら、それは理解できます。では、Bくんは、Aくんに対して、何か勝ち誇ったような感覚を抱いたでしょうか? そんなことよりも、Aくんの“職人技”については、よくわかっていたはずです。Aくんの存在が、制作意欲を刺激した隠れ要因だと捉えるのが妥当だと思います。それから「家族で行った動物園の豊かな思い出」もまた、制作意欲を促したと思われます。そして、やはり、「広い遊戯室のコーナーという環境」が引き金になってBくんに潜んでいた制作欲求が表に出てきた、と解して良いと思います。

当事者たちの意識、無意識に関係なく、このようなドラマを積み重ねていくことで「仲間意識」あるいは「集団づくり」は、醸成されていくと思われます。そして、より豊かな「仲間意識」を育むためには「フリーデイ」に代表されるように、自分で活動が選択できて、自分のペースや持ち味が発揮できて、尚且つ、異年齢で学び合えるような「コーナー」という自在な環境が必要不可欠であると考えられます。どうか、ご理解ください。  【資料提供:川端里穂・徳畑等】
※    「ユナタン」は、今回をもって終了とします。

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≪ユナタン:20≫ at 池田すみれ
~ 「保育参観」を終えて(皆様へのお手紙です) ~

平成28年7月22日 片山喜章(理事長)

 6月7日、10日、15日と保育参観が開催されました。園として(センセイたち)は、「より良い教育内容」と「見ていただくための教育場面」は必ずしも同じではないことを痛感しました。
《コーナー・ゾーンの教育的価値》
昨今、全国、どの小学校でも「アクティブラーニング」(ネット検索してください)が論議されています。中教審は、夢と希望を語りながら、その方向で改革を進めようと画している最中です。
池田すみれで展開されている、コーナー・ゾーンの環境型の教育は、まさに、この「アクティブラーニング」の幼児教育版の一端であるといってよいと思います。
《いろいろ学んで試行して「手応え」を感じた職員たち》
「コーナー・ゾーンの教育」について、センセイたちは、他園を見学し、また他園からのアドバイスをもらって、試行を重ねて、今では、担任各自が確信を持って語れる教育方法でした。
それは、子どもの姿に現れ出ます。いろんなことを自分で選んで、考えて、例えば、「製作」が「ごっこあそび」とつながって発展したり、友達同士で相談したり、ぶつかりあって決める姿を見ると感激し、私にまで報告します。まさに国が言う「協同的学び」と合致した子どもの姿になりつつあります。これまでの「担任主義」とちがって、センセイたちも、より深く話し合う環境ができてきました。いわゆる「チームティーチング」です。この点もまた、国が示している教師集団のあり方です。そして、園長ではなく、センセイたち自身が、「ぜひ、保護者の方々にも伝えたい」と強い気持ちを抱くようになって、今回の「参観内容」になりました。この点をご理解ください。
《「保育参観」には、ふさわしくない内容でした》
けれども、わざわざ、この日のために「お休み」を取って参加されたみなさまには「失望」をあたえた、と思います。私も全く同じ気持ちです。ご存知のように、3年前から関西の法人各園が、相互に保育を見せ合って、保育を評価し合っています。今年度は、コーナー・ゾーンの保育に絞って、レイアウトや遊び込みの状況、教材の研究、保育者の振る舞いについて、シビアに検討しています。それを経験しているセンセイたちは、この教育方法に惚れ込んで、また、自信(過信)をもって「保育参観」をすべて「フリーディ」と称して実施したい、と願って、参観に臨みました。

関西4園が集まった評価の日、私もいっしょでした。そこで、「保育参観はこの方法を見ていただく!」と勇ましく訴えてくるセンセイたちに、思わず、「ゼッタイ!クレームが来るよ」と返しました。しかし、「変更」の指示までは、だせませんでした。なぜなら、この教育方法自体、すばらしいものだからです。ただ、保育参観の日のメニューとしては、ミスマッチだと思います。
けれども、センセイたちの意欲に押されて「実際にやってみて、後で、クレームが来たら、自分たちで説明すれば・・・」とやり過ごしてしまいました。(ですから、私にも責任はあります)
≪コーナー・ゾーン(フリーデイ)》にはならない。クラス別の活動も重要≫
当日の様子は、尋ねていませんが(みんな落ち込んでいるので聞けない)、たくさんの保護者が来る、というだけで、もはや、本来のコーナー・ゾーンの教育にならないことは、自明の理です。
また、全園、クラス活動をとても大事にしています。そこで展開される「担任の腕前」も見ていただくことは大事です。それがなかったのは、参観した保護者として、ほんとうに落胆します。

「子どもが、楽しいということ」と「親が観て満足すること」は一致しない場合があります。
その視点にセンセイたちの理解が及ばなかった、というのが実情です。このコーナー・ゾーンの教育とは、別のところに問題がありました。コーナー・ゾーンで15分くらい過ごした後、リズム、絵画、製作等、きちんとしたクラス活動をお見せすべき、というのが、ごく、ふつうの考え方です。
参観した保護者の方々の落胆、失望のお気持ちはよく理解できますし、妥当だと思います。まだまだ、勢いだけでがんばるセンセイたち(園長、主任も?)が多いですが、“勢いがないよりマシかな”と受けとめていただくとひじょうにありがたく思います。よろしくお願いいたします。
《アンケートはかえってマイナス》
園からの情報ですと、これに端を発して、「アンケート」を実施されるようです。教育内容については、園側からのアンケートなら、意味はありますが、「保護者による保護者への教育内容に関するアンケート」は、センセイたちにとって、精神的に大きなダメージをあたえてしまいます。
一方で、「直接、園にあれこれ言えばいいのに」、といわれても、保護者の方もなかなか言いづらい状況で、また、言っても無視される、などの現実がないとは言えないと、私は感じています。
ですから、アンケートはやめてください、とは言えません。回収して「要望」を出されるとき、国の「教育要領」「保育指針」の文言に沿った内容ならば、真摯に受け取るべきだと思います。
しかし、それ以上に、数名の代表者と園の管理職とで、話し合いをしていただきたいと思います。
《保護者の声は園長の10倍以上》
かつて園長や同僚がどれだけサポートしても、回復しないで苦しんでいたセンセイガいました。
しかし、保護者が動き、子どもたちともに「手紙」を1回、書いてくださったら、いっぺんに元気になって復活した例があります。園長が10回、褒めるより、保護者の「ありがとう」の一言で、センセイたちは嬉しくなって元気がでます。その逆もまた事実です。今回、「コーナー・ゾーン」の教育のすばらしさを訴えたいために、すべてのクラスの参観で披露した“配慮の無さ”と“空気を読めなかったこと”をセンセイたちは悔いています。保護者の方と顔を合わすのが辛い、気が引ける、と、とても凹んでいるセンセイたちがいます。どうか、この状況をお察しください。

私は、コーナー・ゾーンの教育的価値を高め、そのすばらしさを理解していただくためにも、クラス活動にもっと力を注ぎ、保育の腕前を上げてほしいと願っています。そして、今、「具体的改善策」を検討しています。夏が過ぎれば、運動会モードに入ります。クラスを中心に、種目内容も練習方法も、工夫していきたいと考えています。  ※ 「ユナタン」は、8月はお休みします。

2016年7月31日 日曜日

≪ユナタン:20≫ at もみの木台
~ その子のルーティンと園生活の流れ ~

平成28年7月22日  片山喜章(理事長)

にじ組(0歳児1歳児)の「お昼寝」から「おやつの時間」までの出来事です。
園生活において、この時間は、もっともあわただしくなります。幼児の場合、午睡して、決まった時間が来たら、一斉に起床して、ベッドの片づけをはじめ、おやつの準備に取り掛かります。
しかし、乳児の場合は、できる限り、ゆったりした時間の流れの中で生活の「転換」に努めています。その子のリズムや月齢差も配慮して、目覚めた子どもから自分で起きて、「遊びのテーブル」で、好きな絵本を見たり、おもちゃを手にしたりして、それから「おやつ席」に移動するのが基本的な生活の流れです。ある日のこと、Aくんは、なかなか起きてこようとしません。

子どもたちは次々に「起床」し、ほとんどのベッドが片付けられた頃、Aくん(1歳児)は、ようやく起きてきました。このとき、すでに「オムツ替え」を済ませた多くの子どもは、おやつをいただくために「おやつ席」につき、保育者に手伝ってもらって、エプロンを着け始めていました。
保育室全体の雰囲気は、「おやつの時間」がはじまろうとしている感じです。そこに、Aくんもやってきて、「おやつ席」ではなくて「遊びのテーブル」に向かって座ります。手には、絵本とおもちゃを1つずつ持っていました。(おやつなのに?)そこで担任は声をかけました。

「もうすぐおやつが来るから、絵本置いてきてくれるかな」と諭すように言いました。
ところが、Aくんは、何も答えないで、ただ笑顔を浮かべながら、絵本とおもちゃを持って「遊びテーブル」に座ったままでした。「なんだろう、この笑顔は?」「他のみんなは、おやつをいただくために、エプロンをつけてもらおうとしているのに?」「今から絵本?」「なんで、おやつ席に座らないの?」 そこで、担任は、Aくんの心に分け入って“気持ち”を読み解こうとします。

この笑顔は、明らかに『これから楽しい事をするんだ』という感じに見えました。「Aくんは、今から、おやつではなくて、早く起きた友達と同じように、絵本を見ようとしているでは…。確かに、Aくんが、座っているテーブルは、絵本コーナーのすぐ近くにあって、先ほどまで、他の子どもたちが、イスにすわって絵本を見ていたテーブルでした。そこで、担任は「Aくん、絵本読みたかったの?」と尋ねると、「うん」とうなずきました。「じゃ、エプロンは、読み終るまで待ってるね」と声をかけると、おもちゃを横に置いて、勢いよく絵本のページをめくり始めたのでした。
担任が、すべての子どもにおやつを配り終えた頃、Aくんも絵本を読み終えて、本棚とおもちゃ棚にそれぞれ戻して、席に戻ってきました。座るとすぐに「え・ぷ・ろ・ん!」と声をかけてきて、みんなから少し遅れて、おやつを食べ始めたのでした。
同じ日の午前中、園庭で遊んでいたにじ組の子どもたちが、たくさん汗をかいたので、シャワーを浴びてから入室することにしました。その頃、ずっと、涼しい日が続いていたので、シャワーを浴びるのは久しぶりだったため、水を出すと、水と同じくらいの勢いで、にじ組の子どもたちは、駆け寄って来ました。あわてて担任は「お洋服、脱いだ子から順番にしようね」と、制止しながら、1人ずつ脱衣のお手伝いをしました。ハダカンボになった子どもたちは、「シャワーを浴びる子」、「手を伸ばして水の感触を味わう子」、「水に触れて“きゃっ”と悲鳴のような歓声をあげて、その勢いで園庭を駆けまわる子」、個々の子どもがまるで水飛沫のように、飛び跳ねていました。

同じクラスのBちゃん(1歳児)だけ、靴も服も脱ごうとはせず、はしゃぎまわる子どもたちのなかで、ポツン…。(水遊びは楽しいはずなのに?)そこで担任は、あれこれと考えてみました。
シャワーをしている友達の様子を見ているのか、と言えば、それほどでもなく、Bちゃん自身、シャワーの水に触れたいのか、嫌なのか、それも定かではなくて、そこで担任は、思考をジャンプさせて、日頃の“Bちゃんらしさ”を思い描いてみました。

Bちゃんは、今年度、入園した子ですが、「生活の流れ」をよく理解している子です。「ご飯」のときは、さっさと準備して、友達にエプロンをつけてあげる場面もあるくらいです。そして、外遊びをした後は、靴を脱いで服を脱いで着て、入室して、ご飯の用意をいち早くします。
そんなBちゃんにとって、もしかして、≪みんなが靴を脱げば、お部屋にはいって、ご飯の用意をするんじゃないの? みんな、何をしているの? お部屋に入らなくていいのかな?≫と心の中でつぶやいているように担任は感じて、声をかけてみました。

「Bちゃん、お部屋に入る前に、シャワーしたらどうかなあ。それからご飯にしよう。だから、いま、お洋服、脱いでおいで」と誘うと、それまで戸惑っていた姿が一変し、すっと、テラスに行って、そこにいた別の保育者の力を借りることなく、自分で靴と靴下を脱いで、ズボンも脱いで、
シャワーのところまで、戻ってきました。そして、Tシャツを脱ぐのを担任に手伝ってもらって、シャワーを楽しんで、入室し、いつもの流れの中で「ご飯」をいただくことができました。

「起きて、絵本を持って見て、それからおやつにする」(Aくん)。
「外で遊んで、靴を脱いで靴下を脱げば入室し食事をする」(Bちゃん)。
1歳児のAくんとBちゃんに共通することがあります。それは、園生活の中で身に着けたルーティンを自分のモノにしながら生活している姿です。保育者の側も、園生活はできるだけ決まった流れのなかで過ごせるように心がけます。それが、子どもの自立を促すと考えるからです。そういう意味では、2人の動きは、生活の流れに沿おうとしたものでした。けれども、園生活は、状況によって変わるものです。変わる際には、子どもにきちんと説明することを怠ってはならない、保育者がそんな学びを得た1日でした。 ※「ユナタン」は8月お休みです。 【資料提供:上遠野】

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≪ユナタン:20≫ at みやざき
~ わくわくドキドキすっきり夏祭り ~

平成28年7月25日  片山喜章(理事長)

 7月の園だよりで紹介された、2歳児もも・れもん組の「☆タンポ☆」の活動。そこで、子どもたちは「色の混ざり」「色の滲み」「色の不思議」を味わいました。“とんとん”とタンポをたたく心地よさと「色」の魅力を味わっていると“ドンドン”と下から大きな音が聞こえます。

太鼓の音でした。りんご組の子どもたちの練習がはじまりまったのです。園全体に高揚感が湧き出ます。タンポを持つ手が止まる子、“ドンドン”の音色に“とんとん”と自分が選んだ色でタンポをたたいてシンクロさせようとする子、太鼓の音に自然に笑いがでる子、クラス全体にりんご組さんへの“憧れ”が、ひろがります。何も気づかず黙々とタンポで色体験する子もいました。

憧れを抱くことは、「生きる意欲」を自分自身で育んでいることだと思います。今いるほとんどすべてのスター(選手、歌手、俳優)は、幼少期や学童期にテレビなどを通して、当時のスターへの強い憧れが動機になって、努力を重ね、こんにちの地位を得たのだろうと思われます。

しっかり練習して本番を迎えた5歳児りんご組の子どもたちも、昨年、ぶどう組(一昨年みかん組)のときの“憧れ”が、意欲の源泉になっていると思われます。ということは、子どもたちは、直接、指導を受ける以外に、この園の保育文化の影響を受けて、それを励みに生活していると言っても良いと思います。ですから、「コーナーの日」の異年齢保育の価値と同等に、クラス別の保育(学年別の活動)も「園の保育文化の継承」「憧れの体験」という観点からも大切にしていきたいと、私たちは考えています。練習の辛さとは…憧れや園文化と相対的に捉える必要を感じます。

しかしながら、保育の中に「太鼓」を取り入れることは、「良くない」と評するインテリ園長や学者がいるのも事実です。いわゆる“ヤラセ”であるという思考です。まだまだ保育の世界には、短絡思考する方が多いのです(ウンザリしています)。太鼓=○か×か、ということではなくて、≪指導方法≫の“良し悪し”とその活動が、当事者や年少者の“憧れ”の対象になっているか、否かによって、教育効果が大きく異なる、と法人全園で確認しています。お兄さん、お姉さんの凛々しい姿に“憧れ”をもつ経験も、ある意味で、間接的な≪練習方法≫である、と思います。

一方、5歳児りんご組の子どもたちも、自分たちが「憧れの対象」になっていることを薄っすら意識していると思われます。“憧れ”を受けているから、日常のいろんな場面で、ごく自然に幼い子をいたわり、譲ってあげる気持ちが引き出される。「太鼓」には、そんな効果もあるでしょう。
夏祭りを控えてりんご組の子どもたちには、恒例のお役目があります。2歳児もも・れもん組の子どもたちに「盆踊り」を伝授することです。毎日、日替わりでお当番グループの子が5~6名、2歳児クラスを訪問し、そして見本を披露します。今年は「もったいないばあさん音頭🎶」「月夜のぽんちゃらりん♫」に加えて新しく「きのこ音頭♬」が加わります。園だより『ジャンプ』に記載されているように、1週間、毎日、「映像」を見て覚えました。もも・れもん組の年下のお客さんに観せることは、「夏祭り」で大人のお客さんに観ていただく緊張とは異なる緊張と気合いが入ります。このような体験もまた、年長児の教育・保育としては、有意義だと思われます。

ご存知のように法人全体の≪練習方法≫は“見て覚える”です。運動会のバルーン演技も見本を見て覚えて、自分たちの練習中の動き(出来栄え)を見て、話しあって、自分たちで改善していくという≪方法≫を用います。この方法で盆踊りを覚えたりんご組のお兄さんお姉さんが「モデル」となり、もも・れもん組の子どもたちは、生で観て覚えます。これは「映像」とちがって特等席で「ライブ」を見ているのと同じです。まさに「2歳児は、わくわく、5歳児は、ドキドキ」です。

しかも、クラスに入って、始める前に、りんご組の子どもたちは自己紹介をていねいにします。その瞬間、わくわくもドキドキも1つになって、クラス内の空気がピーンと張り詰めます。2歳児と5歳児の特殊な異年齢の関係ならではの不思議な世界が生れます。“憧れのまなざし”、そのまなざしを浴びる“面映ゆさ”、そのなかで「盆踊り」の曲が流れ、臆することなく彼らは踊ります。
もも・れもん組の子どものなかには、はじめ“ぽか~ん”とみているだけの姿もみられます。
が、すぐに不思議な世界の魔力によって、手拍子を打ったり、いっしょに踊りだしたり、興味も踊ります。なかには歌を口ずさむ子も現れます。そんなもも・れもん組の子どもの姿が、りんご組の子どもたちに不思議な達成感をあたえ、さらなる意欲を促します。このように、みやざき保育園では、本番前に2歳児と5歳児の異年齢交流を通したスペシャルドラマが展開されるのです。

そして、本番当日、凛々しく太鼓をたたく姿に多くの人たちが感激しました。事後のアンケートで、りんご組のある保護者が『小さな子の指導に出かけたことを、わが子はとてもうれしいと言っていた』と喜んでくださり、『本番の帰り道、“ぼく、今日も泣いちゃった”というので、何か嫌な事でもあったのかと、尋ねると、自分の番の1つ前で太鼓をたたく友達の姿に“感涙した”と言うのです」と記載されていました。(なんて、感性豊かな子なのでしょう!)

「異年齢保育」と言えば、「コーナーやゾーン」のなかで、個々の子が、自分が遊び込んだ結果、異年齢で交わっていた、というケースが一般的です。しかし、このような「設定」による異年齢交流がもたらす豊かさについても、やり過ぎはダメですが、一考する価値はあると思います。
※8月のユナタンは休刊です。【資料:「アンケート」園だより7月号「てくてく」「ジャンプ」】

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≪ユナタン:20≫ at 世田谷はっと
~ 「てっちゃん」 ~

平成28年7月19日  片山喜章(理事長)

 朝、「積み木&キシャコーナー」には、3歳児おはな組の“てっちゃん(電車大好きな子)”が常時、4、5人います。木製のキシャやセンロ(線路)は、手で持つのに丁度よいサイズで、木の質感も心地良いのか、登園して、即、キシャコーナーで遊びだす子がいます。友達と会話をしているときも、その手には、キシャや線路が握りしめられている場合があります。その姿を見ていると、子どもに限らず、人は、何かを手に持つことで、気持ちが安定し、落ち着くのだと感じます。それが物欲、支配欲を生み出し拡大させるのかな、とも解釈します。手で物を巧みに扱えるのは、人とサルくらいです。サルの社会も上下関係や支配構造がはっきりしています。

そして、昨今、人は、手全体を使って物をつくらないで(農業でさえ機械化)、指先でボタン操作をしたり、パネルを撫でたり、人間らしくない生活をしています。それが、昔から続いてきた支配構造に適応しづらい現代人(現代社会)を生み出しているのでは?と、まあ、思考が、地上を走る電車ではなくて、ヒコーキのように飛んでしまいました。(まったくの独創です)

少し前まで子どもたちは、ひたすらつなげて、つなげて長い線路を作り、キシャもつないで、つないで走らせることだけを楽しんでいました。長さを楽しんでいます。線路は“終わりのないSEKAI”のように拡がっていきます。時々、つなげる手をとめて、立ち上がって“全体”を眺める子どもの姿を目にします。「何を想っているのかな~」と、ふと“疑問”が通過します。
もしかして“SEKAI NO HIROGARI”を実感しているのではないでしょうか?

木製の線路は様々な形をしています。中には、平面ではない急勾配の坂のようにせり上がったパーツもあります。平面の線路がなければ、距離を伸ばすためにこのパーツを使って拡げます。
ですから、葉脈のように線路は方々に拡がります。登り坂を使ったために、そこで行き止まりという路線も現れます。おはな組の“てっちゃん”たちは周回することを意識しないで、ただ走らせて行き止まったら戻ります。それ以上に、キシャで楽しむ子は、線路同様、長く長く連結させることに集中する姿が観てとれました(私なんか、今でも貨物列車が通ると首を振って貨車の数を数えて、50両を越えたりすると、嬉しくて、ひとり、駅の端っこで大騒ぎしています)。

「つなげる」(つながる)意味について考えさせられました。距離が伸びたのは結果であり、行き止まりになっても、くじけずに線路の凸凹をはめ込んで、つなげようとする彼らの行為は、人がつながりを求め、社会を築き、発展させようとする営みと相似形だと感じました。
最近、このコーナーに集まるおはな組の“てっちゃん”の人数が少し減ってきたので、担任の先生は、つなげるだけの線路ではなく、坂で高さを設けたり、積み木を使って高さを支えたり、“てっちゃん”の仲間入りをして“おもしろさ”が増すようにかかわりました。
(すべて子ども任せにしないで、仕掛けをつくるのが「コーナーでの保育者の役割」ですから…)

「キシャセット」には、高架にするための“支柱”がパーツに少量、含まれています。登り坂があって、そこから支柱に支えられた平面線路をつなげる、そして下り坂。そうして遊ぶのがふつうだと考えられます。担任も、しばらくそんな感じで誘導していましたが、そうはいかないところが子どもらしさです。登り坂をつなげて平面で走行すると、さらにそこから登るために、登り坂のパーツを支柱で支え、「ニ段坂」にしようとします。これは、かなり困難な作業ですが、この作業は、すぐに、おはな組の“てっちゃん”の共通の興味になりました。すると、おのずと友達と協力するという精神が動き出して、つながります。「すごい!」担任は驚きます。大人でも困難な作業を子どもたちは、協力しながらどんどん作りあげるようになったのです。

「共通の目的(興味・関心)」に「困難」が加わると人間は、協力するのだと感じました。
災害復興は、多彩な協力の精神が重なって成果を出します。今、日本が、世界が、たくさんの「困難」(貧困、人権、差別、テロ、銃規制等)を抱えていますが、格差の拡がりのなかで対応策を協議する以前に、私たちは、人類として真の「共通の目的(興味・関心)」を持ちえているか、この点を問い直さないと、世界は、光と闇に一層、分断されていくように思われます。

日に日にクリエーターになっていく“てっちゃん”は、ベンチ(縦15cm、横1m)を裏返して鉄橋に見立てたり、高架を作ったり、創意を発揮して、線路を伸ばすだけでなく風景もつくります。特にベンチを裏返して作った高架は、その後、どんどん高さを増して、その分不安定になります。バランスを失い、倒れることが続くと、段ボール箱を持ってきて補修したり、積み木をうまく使って支えにしたりしていました。同時に、運転操作もうまくなりました。
かつて、つなげることだけで満足していた“てっちゃん”は、もうこの時、鉄道の建設と運転手になって走らせる、その双方が興味の対象になっていたのです。

急勾配の坂を登らせるとき、キシャを押す手の力を調節しないと倒れます。倒れないように、壊さないように気を使う子どもたちの姿に感動します。そして、先月の「カプラ」同様、壊れても修復させる技術を会得していました。恐るべし能力。やはり、人間は、根本的にモノをつくる動物です。失敗や困難に出会ったとき、協力という武器で戦います。その戦いを通して、個の能力や腕前を向上させていくのだとサトリました。そして今、私自身、自分が“てっちゃん(哲学の哲ちゃん)”であることに気づきました。(8月のユナタンはお休みです) 【資料提供:足立千恵】

2016年7月16日 土曜日

     ≪ユナタン:19≫ in 種の会
~ 泥んこ遊び・水遊び・プール遊び ~

平成28年7月7日  片山喜章(理事長)

雨上がり、水溜りを発見すると、わざわざそこまで駆け寄って、笑顔で、ぱしゃ、ぱしゃし始めたわが子の姿を見ると、お母さんは一瞬、言葉を失います。それから怒りが込み上げて金切り声で、制止に努めます。買って間もない靴も靴下もだいなしになりました。
「その子の笑顔」と「お母さんの怒り」、このコントラストは、一体全体、何でしょう。
水溜りのなかに魔物が棲んでいるのでしょうか、それとも宝物が隠されていたのでしょうか。

その子にすれば『とってもたのしい~。ぼくのフットパワ~で泥水は驚いて散っていく。強く踏みつけると遠くに逃げるし、ゆっくり踏むと水はじんわりと靴を飲み込もうとする』そこで、慌てて足を持ち上げる。『どうだ(ぱしゃ)、どうだ(ぱしゃ)(ぱしゃ)、ぼくって強いんだ…』と言わんばかりにはしゃぎます。まるでヒーローに扮しているようです。自分が汚したことで、お母さんは、きっと怒るだろうと予測はできるのだけど、その瞬間は、忘れてしまうのです…。

水には、生命を誕生させる不思議な力があります。体の中は、ほとんどが水分で、この時期、熱中症を引き起こさないように水分補給に心がけます。生き物にとって、水は、必需品ですが、子どもにとって水は、どんな玩具にもまして魅力的な存在にもなります。水、泥、土、砂は、今も昔も最大級の遊び相手であり“教材”である、と言っても過言ではありません。水や泥んこの魅力について、私たち保育者はよくわかっていますが、再認識する必要もあります。

「泥んこ遊びの日」以外の日に園庭で水を出して遊びだすと、金切り、まではいかなくても、木切り声くらいで「即刻中止!」を促す事があります。いろいろ“ダンドリ”があるからだろうと思います。この時期はまだしも、4月早々、10月後半など、夏場でなければ「風邪を引く」などの根拠に乏しい理由を持ち出して禁止する場合があります。“今日、あなたの子は(楽しく)水浸しになりました”あるいは“泥んこだらけになりました”と前日に“お知らせ”がなくて、結果報告だけを受けると、保護者の方は、園に対して、不満や不快を感じたりしませんか?
年々、その傾向が強くなってきた気がします。“活き活きさ”を引き出すだけでなく、“情緒の安定”“癒し効果”においても、水遊びや泥んこ遊びは、昔も今も最高級の活動です。怒られることがわかっていても、“したがる子どもの気持ち”や“意欲”を、ぜひ、ご理解ください。

しかし、一方において、プール遊びとなると、少し事情が異なります。楽しい思いをするだけでなく、嫌な思いをする場合もあります。また「水の怖さ」も伝えねばなりません。
プール遊びには、「3つの柱」があります。
1つめは、「自由にオヨグ」ことです。それは、自分の能力や課題にチャレンジする機会でもあります。ある子はワニさん歩きをしたり、また、ある子は顔付けをしたり、潜ってみせたり、それぞれその子らしい「表現」をします。そのとき、決まって“見てみてコール”を放ちます。
両手で体を支えて、両足を浮遊させる“ワニさん”の何ともいえない不思議な感覚に思わず、「センセイ、見てみて」と叫びます。この子どもの気持ちや姿を最も大事にしたいと考えます。
こんなとき、大人は、ただ頷くだけで良いと思います。「では、今度は、お顔をつけてみたら」と返すのは、この姿を認めていないことになるので、あまり望ましくない、と考えています。

この「自由にオヨグ」ときには、約束を設けます。「水かけ禁止」です。それぞれが、マイテーマに挑んでいるときに、水を掛けられるのは、迷惑です。けれども、その後「水かけタイム」を設けます。まず、真ん中にいる先生に水をかけたり、先生の代わりにできる子を募ったり、2チーム対抗で「水かけ大会」をしたりします。ふいに水をかけられと泣いてしまう子も「ゲーム形式」にすると、耐えようとしたり、顔を背けて、わが身を守ろうとしたりします。

2つめの柱は、「集団遊び」です。「渦巻き」といわれる方法で、みんなが同じ方向に走って、止まってワニさんになったり、体を浮かせたりします。水流に乗って、得も知れぬ面白さを味わいます。また、ロープを使って、水中綱引きをしたり、物干し竿を握って、レスキュー隊のように匍匐前進したり、円錐標識を使って、2チーム対抗の玉入れならぬ水入れをしたりします。
水の中、という特殊な環境の中での“ふれあいゲーム”をする、というかんじです。

3つめは、「泳ぎに向けて」というテーマに挑みます。両サイドにわかれて、1,2の3で、壁をけって、ロケット(ワニ)になる“ケノビ”をしたり、高さ30センチのベンチを沈めて、そこから飛び込んで、連続して泳いだりします。しかし、ここでもその子らしさを認めます。
飛び込みをする子、飛び込みではなくて飛び降りて、ワニさんになる子、それはその子自身が、自分の気持ちや力と“相談”しながら決めることなので尊重します。保育者的には、なんとか、レベルアップしてほしいと期待しますが、その子なりに「危険回避」「自分の身を守る」ことを考えて判断していることなので“本気”で尊重することが、大事である、と考えています。

35年前、保父さん時代、5歳児を市民プールに連れて行って、足の届かない大プールを経験した時(25名の子どもに引率4名)、ひと通り、大プールを味わった後、選択にしました。
その時、多くの子どもは先生のサポートを受けながら、大プールを満喫していましたが、3人だけ、ずっと赤ちゃん用の小さなプールで遊んでいました。その中の1人は、当時、まだ珍しいスイミングに通い、バリバリに泳げる子であったことが、今も、強く、印象に残っています。

カテゴリー: 法人情報
2016年7月6日 水曜日

≪ユナタン:18≫  at  もみの木台

~ “不可解な思い”から保育はひろがる ~

平成28年6月22日 片山喜章(理事長)

3歳児つき組の子どもたちと担任のY先生が砂場で遊んでいたときのことです。Aちゃんが、園庭側の道をあるく女の人とフェンス越しに何やら話をしています。
その人は、子どもたちが無邪気に遊んでいる姿を微笑ましく眺めていたところ、Aちゃんと目が合って、Aちゃんの方から「こんにちは。お名前は何?」と声をかけました。すると、「こ・ん・に・ち・は」と返ってきました。ところが、Aちゃんは、その人とバイバイした後、担任のところにやってきて、「お話ししてくれなかった」と寂しそうに訴えました。
担任は、「フェンスの向こう側だし、Aちゃんの言ったこと、ちゃんと聞こえてなかったんじゃない」と言うと、「ちゃんと、お話した!」と怒りをぶつけるほど、Aちゃんは反論しました。

実は、この方、中国の方で、いつも「こんにちは」と「バイバイ」だけ声をかけてくれます。
Aちゃんの「お名前は?」の“質問”は、“いつもの会話”とは違っていたため、少々、困惑されたのか、笑顔だけのお返事になったのだと思われます。Aちゃんは“どうして話してくれなかったのだろう?”と不可解さを感じながらも、それまで遊んでいた玩具が目に入ると「まっ、いいか」と気持ちを切り換えたのか、再び、それまでの遊びに夢中になりました。
そこに関わっていた担任は、Aちゃんにとって通り過ぎた“出来事”でも、自分的には「まっ、いいか」では、すまされない、そんな“もやもや”を感じながら、その日はそれで終わりました。

別の日、お散歩中、Y先生は、5歳児の子どもたちと歩いていて、ふと、“あの日のこと”を思い出しました。この5歳児の三人に“Aちゃんの出来事”をそのままの内容で話してみました。
“5歳児だったら、果たして、どのように考えるだろう”“どんな返事が返ってくるだろう”、と興味がわいてきたからです。三人は「なんでだと思う?」のY先生の問いに、まず一人が「耳がきこえなかったんじゃないの?」と切り出し、それから「Aちゃんの方から先に名前を言わなかったから、機嫌が悪くなったのかなあ?」。そして「見た目はどんな人だった?」「手の色はみんなみたいだった?」と、推理はどんどん“確信”に迫ります。さすがに5歳児です。そして、最後に、一人の子どもが、「じゃぁ、次、話をしても伝わらなかったら“こっち、来たら!”ってやったら?」と大げさに手招きするジェスチャー(身振り)をしてみせました…。

…ということは、もしかして、三人は、“この人のこと、言葉(日本語)が伝わらない外国の人だってわかって話をしている!?”。そこには既に“暗黙の認識”があるように感じました。
ならば、「子どもたちの、この“気づき”を、すぐにでも保育に活かさないとモッタイナイ!」と閃いたY先生。その瞬間、Y先生の“もやもや”は、スッと晴れたのでした。
その日の夜、たまたまバレーボールの試合がテレビ放映されました。「日本vs中国」の一戦です。そして、(ナント)、その試合を観戦していた子どもがいたのです。

翌日、「ジェスチャーで伝えたら?」と言っていた子どもから「この前の人、みんなと同じような人だった?」と質問を投げてきました。Y先生は “この子、もうわかっている!”と理解したうえで、あえて「なんで?」と聞いてみると「中国の人って、私たちと同じかんじだったよ!肌の色も一緒だし、髪の毛も黒いんだよ!」と興奮気味に話してくれました。そこで、Y先生は「じゃぁ、この前の人は、中国の人だったのかな? みんなと同じようだったけど。でも、日本語、分かってたらお話ししてくれるよね?」と返すと、ある子が「中国は日本語でお話しないんだよ!何語なのか探そう!」と言って、絵本コーナーにある「国旗の絵本」を熱心に見始めました。

あいにく、その絵本には“中国で話されている言語”については書かれておらず、「分かんないね…」と嘆いていましたが、なんとか、どこかに書いていないかと、懸命に他の絵本を読み、中国の事が載っている本を探し出し、遂に!“中国語で話す”ということを見つけ出したのです。その場にいた子どもたちは「“中国”って、どんな国なの?」と興味、関心を抱き、国旗の絵を描いたり、カタカナで書かれている“中国語の挨拶”を言ったり、それは、もう、大盛りあがりでした。
5歳児にもなると、自分たちが感じた疑問は自分たちで調べて、答えを出そうとします。まさにアクティブラーニングです。私たちは、それに応え、広げる保育を大事にしたいと思います。

幼児クラスのコーナーには、地球儀や各国の国旗があります。「中国」に対して興味を持った今、そこから、「世界」に対する興味や関心に広がるように、「環境」を充実させて「多様性」や「異文化」に慣れ親しみ、それを受け入れる受容力を育んでいく。それが、これからの教育・保育に不可欠である、とまずは、保育者自身が、しっかり意識し、認識し、実践していこうと考えています。

現実問題として、いま、世界情勢は、ほぼ全地域で混迷と混乱のさなかにあると言えます。
世界は、相互に複雑に絡み合って成り立っているので、混乱が連鎖します。自国の「国益」だけを志向する国家や政治家を“不可解”に感じます。“絡み合い”の中に居るからこそ「お互いを知る」、世界は、お互いに知り合うことから国家の枠組を超えた地球規模の平和が保たれる、そんなふうに考えると、上記のように、幼少期から、いろんな国々のいろんな事を調べたり、話したりしながら、知っていく。その姿勢や態度を養うことは、日本の教育の大きな課題であると思います

Aちゃんの「話してくれなかった…」という“不可解”な思いから始まった「物語」ですが、事の始めは、フェンス越しに道行く人に「挨拶」をしたAちゃんの行為です。山道で人に出会えば、見知らぬ人どうしでも挨拶します。挨拶する事にもまして“挨拶しようとする気持ち”、その気持ちこそ国や地域を越えて、とても、すばらしい人間の心だと思います。 【話題提供:佐藤廉菜】

 

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 ≪ユナタン:18≫ at みやざき

~ 涙・スプーンミルク・睡眠 ~

平成28年6月20日  片山喜章(理事長)

「たいへん、たいへん、速くお出かけしないと仕事におくれちゃう」と、朝、お出かけ前、ママがイライラした気持ちのままでいると、なぜか、わが子にもイライラが“感染”して、ぐずってしまうことがあります。特に乳児の場合、落ち着いてお家を出たとしても、園に到着して『シート』に記入して、それから着替えを「ロッカー」に入れて、さらに、あれこれ支度をしながら、お母さんの気持ちが「出勤モード」に切り替わったとたん、泣き出す子どもをよく見ます。

乳児なりの“危険予知力?”でしょうか。年齢が低いほど、親御さん、あるいは担任の先生たちの「心の状態」を言語や表情や仕草以外の「何か」によって察知します。ほんとうに不思議です。

言い換えると、私たち、子どもにかかわる大人が「心の状態」を整える事が、ある意味で、乳幼児教育の“基本のキ”であると言っても決して間違いではない、と思います。

0歳児さくらんぼ組のA君も代表的なそのひとりでした。機嫌よく登園しても、お母さんの仕草から「バイバイ」するのが確実だと感じ取ったとき、大泣きしはじめて、お母さんにくっつきまわります。そんな日々が続きました。お母さんも、うしろ髪を引かれる思いです。けれども、もしかしてその一方で、母親として慕われている実感が湧き出て、大泣きするわが子に対して、一層の愛おしさや母親としての“使命感”のようなものを味わい、“よし、仕事もがんばるぞ”とポジティブになる瞬間かもしれません。朝の辛い別れには、そんな大切な意味があるような気もします。

A君は、ある時期、体調を崩して休園しました。その後、回復し、元気に登園してきましたが、哺乳瓶でミルクが飲めない状態に戻っていました。園では、担任が、離乳食ととともに“回復への願い”を混ぜ込んで、“スプーンで200ccのミルク”を飲ませる日々がしばらく続きました。

今、現在、といえば、園生活に慣れ親しみ、よく食べ、よく遊び、ベッドでよく眠るようになりました。そして、朝、登園し、あれこれ支度をする際、大泣きすることもなく玩具に夢中!です。 お母さんが、「行ってきます」と手を振っても、キョトンとした顔。こうなると逆転します。

お母さんは、あれだけしがみついていたのに、と、寂しさに前髪を引かれながら、戸口で大きく手を振ってみたり、涙をぬぐう真似をしたり、何度もなんども「行ってきま~す」をします。

「揺れる親心」と「子どもの成長」、こんなすばらしい日常にふれていると“良い仕事しているなあ~”と思わず悦にひたる担任でした。もちろん、A君自身の育つ力とご家庭の愛情があってのことですが、“スプーンミルク”が心の栄養素になった気もします。 【話題提供:田村恭子】

 

  『1歳児いちご組のB君のお話しです』

朝、登園する時は大泣きします。やっと泣き止んでも、側にいた保育士が立ちあがるだけでまた泣きだします。その後、保育室の扉が開く度に「ママが来た」と思って泣き出すこともありました。

夕方も次々にお母さんたちがお迎えに来られるたびに、「ママが来た!?」(違った↓)と泣き崩れることが続きました。けれども、日中は、“ままごと”で遊んだり“がちゃがちゃ”を試したり、お部屋を探索したり、B君なりに、自分の世界を園内で広げているようにも伺えました。

私は、子どもが泣く意味について、あれこれ考えることがあります。めそめそとよく泣く子は弱い子でしょうか? いつもダダをこねる姿とは違います。自分の気持ちを外に出したい欲求の強い子でしょうか? 何とも言えません。感受性が比較的、強い子と言って良いのかも…。こんなふうに「親や保育者が、冷静になって、子どもが“泣く事”について、少し哲学的に考える行為だけで、“子どもとの信頼関係が強まる”のではないか」と新作の“仮説”を私は作り出しました。

そんなある日、担任は、いつものように“抱っこ”のまま泣きながら入眠するB君を、そ~と、ベッドに置いてとんとんしてみました。担任は、きっと、自分の腕の中でしあわせそうに眠るB君の顔を見て、抱っこ以上に「眠りの魅力」が勝るかもしれない、そう感じたとのことでした。

ベッドに横たわると、さっと目を覚ますB君に担任は彼の顔を見て、とんとんを続けると安心したのか、再入眠しました。そして、ときどき、途中で目を覚まして、周りを見渡して、また自分でコロッと眠ります。それからのB君は、よく、このような姿をくりかえし見せてくれます。

その頃から、B君は、園生活に慣れだして、とんとんしなくても入眠し、起きたら、どんどん自分で動いて遊ぶようになりました。入眠すると大人も子どもも“眠りの世界”にお出かけします。夢も見ていることでしょう。私の場合、夢を見ない日はありません。前夜の夢の内容は忘れても、3年前、10年前、子どもの頃の“秀作”はいまも時を越えて自分のなかで生き続けています。

B君は、午睡中、目が覚めて、夢から覚めても、周囲を見渡して、「ああ、自分は、保育園にいるんだ~」と「安心」してまた眠りにつき、また目覚めては、担任の顔を見て、一層「安心」してまたまた眠るようになりました。この姿に、担任はスコブル感激します。『あれだけ、泣き続けたB君が、園生活と自分たちに慣れ親しんだ証し!』 寝て、目覚めて、周囲を見て、安心してまた眠る。担任は『この仕事にやりがいを感じる最高の瞬間である』と力強く言い切ります。

もしかして、担任は、B君の泣き続ける姿から、その意味を哲学し、私の仮説どおり、信頼関係が強まり、さらに午睡中のB君の心の中で眠る“これまで抱っこされ、可愛がられた体験”が、睡眠を栄養源に、「安心感」を創造したのかもしれません……。  【話題提供;朝倉香也代】

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ユナタン:18≫ at 世田谷はっと

~ 創造と崩壊 ~

平成28年6月18日  片山喜章(理事長)

“カプラ”をご存知ですか。縦横11.8cm×2.4cm、厚さ8mmの積み木のような板です。

これまで主に5歳児つばさ組の子どもたちが、高く多彩に積み上げて「作品」を造っていましたが、5月頃から、4歳児そら組の子どもたちの間で流行りだしました。そのきっかけになったのは、もちろん、つばさ組の「作品」に刺激されたこともありますが、“カプラコーナー”に「作品見本」として掲示されている「数枚の写真」です。どれもこれも、なかなかの「作品」です。

それを見た人たちは活動意欲をそそられる、そんな写真です。レストランのHPでメニュー写真を見ると、行って、食べてみたくなる、あの“しつらえ”と似ています。

さっそく「こんなの作りたいな」「こっちの方がいいぞ」「いやいやいや~、これだよ」と活動意欲がどんどん積みあがります。激論の末? 子どもたちが選んだのは、“お家”でした。

お家づくりをはじめたのは、女の子たちでした。造りながらイメージをわかちあい、それを形にするには手先の器用さが求められます。そして集中力、持続力が必要です。ある程度、積み上げて、“お家”らしくなると、女の子たちは中断して、それぞれ違うコーナーに行ってしまいました。

しばらくしてやってきたのは、やはり、そら組の男の子たちでした。要領を会得してタンタンと積み上げる子もいれば、見よう見まねではじめた子もいます。そして迷い、戸惑いながら積み方を試している子など、1つの「お家づくり」のなかに多様な“腕前”と「気持ち」が同居しています。

ここに子ども本来の「学び合う姿」「大事にしたい教育の形」を認めることができます。

「あれっ、その積み方、ちょっと、ちがうな~。どうしよう? まあ、いいか~?」と横やりを入れるべきか、否かで躊躇していた担任の横に“カプラマスター”を自負する男の子たちがやってきました。彼らは「そうじゃないんだよなっ」と言って、何の躊躇もなく手直しをはじめました。

“さすが、カプラマスター♡”と担任はうっとりしていまいました。彼らは、せっかく積み上げた“お家”のかなりの部分を崩壊させて、その日から「創造の道」を歩み始めたのでした。

その“お家”が1mくらい積みあがった日のこと。

『……ガッシャ―ン🎶!!』 ホール全体に“お家”が大崩壊する音が鳴り響きました。お家づくりに参加していない女の子が、たまたま通りがかった時に接触してしまったアクシデントです。

…! 即座に“カプラマスター”が駆けつけます。その後ろには、他のコーナーで遊んでいた子どもたちが、見物客になって、ひとり、ふたり、さんにん、と、どんどん群がってきました。

さあ、これからどんなドラマが展開するのか見物客は興味津々。もちろん担任の先生もいろんなケースを想定して、気合いを入れて、きらきら、どきどき、そして密かに、うきうきしていました。

案の定「怒り」「悔しさ」「悲しさ」が嵐のように、その女の子に浴びせられました。担任は、その子が泣き崩れる姿を瞬時に予測しました。が、しかし、女の子は「ごめんね!」と語気を強めて返します。何度もなんども謝りましたが、“カプラマスター”たちはなかなか許そうとしません。

すると、女の子は半ば、逆ギレ状態になって、そこで見構えていた担任に「何回もなんかいも、ごめんねって言ってるのに許してくれない!」とプンスカ、プンスカ、怒り気味で訴えました。

すかさず担任は「なんで許してくれないんだろうね?! ○○ちゃんも“お家”を作ってみたら、どうしてなのか、きっと、わかるかもしれないね」と答えました。(goodな対応です)

その後、再び、“カプラマスター”たちが積み上げ直す日々が続きました。跡形もなく破壊されたけれども、ある程度、積み上げていたので、作り手には、そのイメージが残っています。なので短い工期(?)のなかで、あっという間に高さが1.5mほどになりました。

そんなある日、日頃、3人でいることの多い男の子トリオがやってきました。カプラコーナーに“カプラマスター”は居ません。

3人は続きを試みました。椅子を用いて高く積み上げていると、『……ガッシャ―ン🎶!!』という乾いた大きな音に拍子木のカン高い響きが広がります。

と同時にまた見物客。まったくカプラにかかわっていなかった3歳児おはな組の子どもたちも寄ってきて、見物者は、前回の倍くらいの人数になりました。もはや野次馬といった感じです。

もちろんカプラマスターも血相を変えてやってきました。おはな組の子どもたちも、崩壊させた3人に対して、恐る恐る正義感のある“叱責”をぶつけます。3人は凹んでしまいましたが、今回、“カプラマスター”はあまり彼ら3人を責めませんでした。これって、一体、何でしょう?

私なりの想像の域をでませんが、彼らなりに「創造」と「崩壊」、つまり諸行無常の理(ことわり)を薄っすらと感得したのではないか、と感じます。微妙なバランスで出来上がっている物は、いつか壊れる。それも1度ならず2度も体験したのですから“仕方ない”と悟ったのだと思います。

一方で“お家”は崩壊しても、彼らの頭には“制作方法”、体には“腕前”が崩れることなく、蓄積されています。それが3人に対する“寛容さ”をもたらせたような気もします。

いま、世界中の数多くの“国家”がかつてない規模で崩れるリスクを背負っています。ワールドニュースを見るとわかりますが、どの国もぎくしゃく、ガタガタしています。格差、汚職、抑圧。欧米EU各国、南米の国々、アセアン諸国、日本も、格差と安保と大借金で揺れています。

これまで創造してきた「権力構造」「経済システム」「国家という体」「人間の思考体系」が、崩壊に向かっていると感じます。「地球環境」も既知の数値以上に厳しいように思われます。

子どもたちには、崩壊を食い止める新たな創造の担い手になってほしいと心底、願っています。

男の子3人は“カプラマスター”の寛容さによって、すぐにケロッとしました。その姿に触れて私は、深い次元で安堵しました。これって一体、何でしょう?   【資料提供:鈴木郁美】

2016年7月5日 火曜日

ユナタン:18≫ at はっとこども園

~ 「2つの時計」と「遊び心」 ~

平成28年6月18日  片山喜章(理事長)

幼児の保育室には時計が2つ、並んでいます。(ひとつは電池がはいっていません)

どんな意図で、時計が2つも並んでいるのか、その“仕掛け”をご存知ですか?

「子どもの主体性を育む」ことは、保育・教育の基本的な「目標」です。けれども、言うのは簡単です。私たち現場の保育者は「目標」を言葉で唱えることができても、いざ、「実践する」となると、絶えず、思案します。保育者の創意やアイデア勝負になるからです。実際、先生に強いられた活動でも、それを受けとめる子どもが活き活きしていれば、素直で、「主体的」に活動しているような気になってしまうことがあります。逆に、言われたとおりに片付けをしないで、好き勝手に活き活きと遊んでいたら、どうでしょう? 活き活きしているから「主体的」ですか? ルールを守らないのだから「主体性」とは言えないでしょうか? こんな事が現場でよく話題になります。

こんなふうに“言葉の意味”を詮索しだすと、もう、ワケワカメな状態になってしまって、結局、「主体性」について考えるのが邪魔くさくなってしまいます。「2つの時計」は、主体的に行動するための「1つのアイデア」として、園生活にかなりしっかり根付きだした「保育の方法」です。

いま、はっとこども園では、一定の時間、コーナー・ゾーンの保育が展開されています。

6月になったある日の「積木コーナー」での出来事でした。そら組4歳児A君とB君の2人が「積み木」を並べて遊んでいました。かなり集中していたようです。その横で、にじ組3歳児C君も同様に遊んでいました。そして“お片付けの時間”に気がついたのはC君でした。

では、C君が、なぜ“お片付け”の時間を知ったのでしょう……。そこに「2つの時計」という“仕掛け”があります。1つは、ふつうの時計です。実際の時刻を示しています。もう1つは、電池をはずした“合図の時計”です。保育者が自在に針を動かして、時刻を表示することができます。

その日の“お片付けの時間”を保育者は“合図の時計”を使って9時30分に合わせました。

それが、保育者が決めた“お片付け”をする時刻です。3歳児のC君は、「2つの時計」の針が同じ状態(どちらも9時30分)になったのを確認したので、「遊びたい自分の気持ち」を切り替えて“お片付け”を始めたのでした。C君のこの「自制心」「時計を見て判断する力」は、本来の子どもらしくない姿かもしれませんが、「主体的な行動」だと私たちは考えるのです(賛否は別)。

その流れの中で、C君は、隣に居た年上のA君、B君が作っていた積み木も片付け始めたのです。「積木コーナー」は“片付けの時間”になると全て片付けるルールは、誰もが理解しています。

すると、それまで機嫌よく遊んでいたA君とB君は声を荒げて「やめろや~!何すんねん…」と言ってC君に、飛びかかりそうになったのでした……(アッ、ケンカになる)

けれども、C君はさほど気にもせず、黙々と積木を片付け続け、とうとうすべての積み木を片付けきって、「サークルタイム」に行こうとしました。A君もB君も一層、カッとなって、C君の腕を掴んで「“なかよしベンチ※”で、話しようや!」と言ってC君を連れて行こうとしました。

  • もめ事が起きたら、大人に頼らず、その場所に行って、自分たちだけで話し合って、解決しようとする園文化です。これも(言い合える)「関係性」を豊かにし、「主体性」を促すと考えています。

 

3歳児のC君は、彼なりに不条理に感じたようです。すぐに「積木コーナー」の近くに居た保育者のところへ行って、「先生、助ケテ。。ボク、まちがってないのに…」「“お片付けの時間”にナッタカラ、かたづけたダケ、やのに…」と訴えました。一部始終、事の経緯を見守っていた保育者は「そうね、C君の言ってること、正しいと思うよ。A君、B君に、そのこと、ちゃんと、お話ししてあげたらどうかな?」「センセイ、ここで、ずっと見てあげるからね」と言葉を差し伸べました。

3歳児のC君は、まだ怒っている4歳児の2人に対して「だって…“お片付けの時間”やもん。“トケイ”見たら、片付けする時間やったモン」とリキを入れてしっかり言いました。その言葉に2人は一瞬“チ~ン”。互いに顔を見合わせて、そのまま、そろ~と「2つの時計」の方を眺めて…(苦笑!)。「あっ、ほんまやな~……ゴメン」と照れくさそうに笑ってC君に応えました。

現在の時刻と“お片付けの時間”を表示した「2つの時計」。「時計という存在」が今を知らせ、そして片付けを促す“仕掛け”になっていることを子どもたちは承知しています。今回は、3歳児のC君が気づき、4歳児が気づかされるというエピソードでした。『3歳児なのにスゴイ!』と感じる方がいるかもしれません。しかし、私個人は、C君の性格や人柄によるところが大きいと思いますが、それより3歳児ならではの“幼さ”と“好奇心”によるのではないかと考えました。

C君にとって、「2つの時計の意味」を“会得した喜び”を表現することが「積み木で遊び続けること」にまさったのだ。そんなふうに考えました。もちろん、4歳児のA君、B君も年下のC君から「正論」を言われたわけですから、「しゃ~ないな」と諦めがついたのかもしれません。

そこに居た保育者は、4歳児のA君、B君がC君の言葉を素直に受け入れて「気持ちいいくらいの潔さを感じた」さらに「この“2つの時計”の存在(仕掛け)が、子どもたちの生活の中に、根付いていることが実感できた出来事だった」と私に感想を述べました。評価に値する教育です。

むかし、私は、この“仕掛け”を主体的な「保育の方法」として提案しました。なので、異論はありません。しかし最近、メッキリ年老いたせいか、“片付けの時間”をわざと無視して、遊びに没頭する子どもの姿を密かに期待したりなんかしています・・・(きゃ~、先生たちに怒られる!)。

私の中に「2つの尺度」が在って、今、両方とも動いているのです。 【話題提供:福田侑真】

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ユナタン:18≫  at なかはらこども園

~ 2つのコーナーから、きこえてきたもの ~

平成28年6月20日  片山喜章(理事長)

前回、≪ユナタン:17≫で紹介した「コーナー・ゾーン」による活動を午前中いっぱい続ける「フリーデー」が、6月1日にありました。その日、法人の関西各園から見学者を招いて、観察し合い、評価し合う“ライジン”と称する「研究会」も合わせて行われました。日頃、物静かな園長と2人の主任もこの日は、何としても良いところをみせたい!という思いが強くはたらいて、何日も前から、熱意と創意の限りを尽くして、この日に向けて、職員集団にハッパをかけていました。

その中で、ユニークで、興味深かったのは、H先生が担当した遊戯室を使った《科学ゾーン》とY先生が担当した2階の東端の部屋を使った《楽器エリア》でした。2人とも男性保育者です。

《科学ゾーン》:遊戯室には、5歳児ぞう組の子どもたちが7~8人集まりました。さらに3歳児ばんび組の子どもも加わりました。この日のテーマは「糸電話」の研究でした。“受話器”にあたる部分を“紙コップ”“プラスチックコップ”、“電話線”は“タコ糸”“麻ヒモ”“タフロープ”を、それぞれ準備して、どの組み合わせが「電話」として機能するか実験します。実験希望者が想定外に多く、担当者は大慌てでした。子どもたちは、組み合わせの異なる何種類も「糸電話」をつくりました。ここに時間が費やされましたが、多様な「糸電話づくり」もまたおもしろかったです。

『ヒモ(電話線)の長さは、どれくらい?』と、ヒモの長さを様々に変えてみて、ヒモの長さと音量は関係するのか、疑問を抱いて試す子。『紙コップどうしをくっつけるだけでも相手の声が聞こえるよ。これ紙(論文?)に書いておいて』と“発見”を誇らしげに訴える子。「糸電話」が次々に完成したので「実験」は、遊戯室と上の園庭にわかれて行なわれました。

「紙コップ」と「タコ糸」が正解だとすぐに理解した子どもたちは、H先生と一人ひとり順番に会話しました。『うわぁ~! めちゃ聞こえる』と糸がピンと張っていると声がはっきり聞こえることを体感した子どもたちは大感激です。最初、地声を張り上げて、それで『聞こえる』と騒いでいる子どもも多くいましたが、この《真実》にふれると、少し真顔になって、にわかに信じがたい、という表情に変わっていったのが、とても印象的でした。少し離れたところに居るH先生の“声”が、耳元で、まともに聞こえるのですから、まさに驚きの体験です。

音は、音量、音質ともに振動として鼓膜に伝わります。ピンと張ったタコ糸には音を伝える力がある事を体で学び取ったひとときでした。次は、「電話線」をどんどん伸ばしたり、電話機を大きくしたり、線のない携帯電話で、なぜ会話ができるのか、先生たちもそれくらい探求してほしいと思います。「探求への旅」は「自分自身を知る旅」でもありますから…。【話題提供:橋元次郎】

≪楽器エリア≫:大勢の子どもが群れ集う多彩なコーナーの一角に、騒がしい音がする“楽器コーナー”を設定するのは、いかがなものか、と懸念していました。しかし、何回か経験している実績があり、また楽器で音を出せるコーナーは“エリア”として、2階の一番東端の部屋で、他のコーナーと仕切られていたので、他園ではみられないコーナーになるのかなと興味を抱きました。

10時ジャスト、他のコーナー・ゾーンから少し遅れてオープンした楽器エリアには、保育者がついています。担当は、なかはらでも屈指のピアニスト、男性のY先生です。

始まる前、2人の子どもがプレイルームを往来し、“呼び込み”を行なっていました。楽器をたたくだけなら、1人でできますが、リズムは、何人かと“合わせ打ち”してはじめて“おもしろい”と感じられる特徴があります。なので、仲間を集めに行ったのだと思います。

集まった子どもは、5歳児ぞう組と3歳児ばんび組の子が多く、計12人くらいの子が、好きな楽器を使って自由にリズムを打ちはじめていました。楽器は、カスタ、スズ、タンバリン、ウッドブロック、トライアングル、そして木琴です。リズムだけを打ち続けるには、強い表現欲求や決められた形が必要です。でなければ長続きしません。メロディーを奏でる打楽器である木琴が設定されてあるのは、奇妙な感じがしましたが、今後、発展する可能性を秘めているとも感じました。

と、そこにY先生が、ピアノの前にすわって、にこやかに、しなやかに弾きはじめました。

「おもちゃのチャチャチャ🎶」「♪手をたたきましょ」他、メロディーに合わせて、その子なりにリズムを意識して楽器を打ちます。四分(音符)打ちを続ける子、メロディーに合わせて四分と八分を使い分ける子、三連符を巧みに打つ子、様々ですが、クラス(年齢)によって、打ち方がだいたい同じでした。3歳児は、カスタやタンバリンを打つとき、多くの場合、足も動いて歩きながら打っていました。まさに、これが「3歳児の特徴」と「研究」できたように感じました。

一斉クラス活動として、緊張感を持たせる器楽活動と違って、自分が選んだコーナー活動であること、そして1曲終わるごとに楽器を交換する自主ルールを設けたので、楽器を取り合うトラブルは起こりませんでした。このエリアには、台が1列に並べられており、その上に立って器楽合奏をするシツラエになっていました。が、子どもたちは回を重ねると、お互いに向き合うように立ち位置を工夫したり、Y先生も木琴の位置を外向きから内向きに変えたりしました。

3曲終わると、また自由打ちの時間になります。およそ10分間隔で、ピアノ演奏が行なわれ

ますが、次の開始時間は、部屋に備え付けの時計に表示されます。

そして驚いたのは、その時間になると、演奏を聴きに来るお客さんが、他のコーナーからやって来たことです。まるで演奏会を聴きに来た感じです。絵画は完成品のある空間に“楽しみ”が存在します。音楽は、演奏する事、演奏を聴かせる事、演奏に聴き入る事、つまり音が、空気中を踊り出す時間の流れに“楽しみ”が存在する、今更ながら、そう感じました。 【話題提供:横田太郎】

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ユナタン:18≫ at ななこども園

~ “いろんな想い”を乗せたり、降ろしたり ~

平成28年6月23日  片山喜章(理事長)

今年度にはいって、週1回、「コーナー・ゾーン」で活動する“フリーデイ”が定着しています。子どもたちは回数を重ねるたびに“ただ気の向くまま遊んでいる状態”から、自分のしたいことを自分のなかではっきりさせて、時には、クラスを越えた仲間とともに“目的を持って遊び込む状態”に変わりつつあります。保育者集団もまた、今まで大切にしてきた“ななの保育”に、この新しいタイプの保育を通して、子どもの見方を広げ、子どもたちのさらなる成長を願っています。

6月1日のフリーデイのことです。3歳児ゆり組のX君は、コーナーがオープンすると、真っ先に“積み木コーナー”に向かいました。そこには木製の玩具、「電車」と「線路」もあります。

4月、フリーデイ開始当初の積み木コーナーは、5歳児ばら組の子どもが多く、「電車」と「線路」を積み木と合体させて「駅ビル」や「車庫」を工夫しながら作っていました。その姿に影響されたのか、最近は、どちらかというと、3歳児ゆり組の子どもの比率が高くなってきました。

さっそく、X君は「電車」をつなげました。あっという間に6両連結になりました。しかし、それを「線路」の上に乗せないで、フロアーに置いて、自分の体を中心にその周りを蛇行運転させたり、ビュワーンとまっすぐ長い距離を走らせたり、ひとりで遊んでいました。

この遊びは「電車」が通る「線路」を作る面白さもあります。右カーブに左カーブに直線、多彩な「線路の部品」をあれこれ組み合わせて軌道をつくっていく。やがて、出発駅も終着駅もない、その日限りのアートな環状線になる。その制作過程もまたこの遊びの面白味の1つです。

自分(たち)が“いきいき気分”で組み合わせた「線路」が基底になって、その上を“わくわく気分”を乗せた「電車」たちが、なぞっていく。GO&STOPをくりかえしたり、スピード調整を楽しんだり、その“操作”がたまらなく面白い。けれども、X君は「線路」という軌道の制約を望まなかったのか、あるいは、他の子どもとの接触を避けたのか、しばらくの間、「線路」から離れたところで自由に“運転”していました。けれども、その一方で、同じ3歳児クラスのA君たちが、どんどん線路をつなげて、拡げて、面白そうに遊んでいる様子も、気にかかります。

「う~ん、どうしよう?~」、「電車」を手にしたX君の表情には“戸惑い”が、停車中。

X君、意を決して、チャレンジ! 手持ちの6両連結の「電車」を「線路」に乗せました。その「線路」で10台の「連結電車」を走らせていたA君と目が合います。一瞬の間、お互いに見つめ合って力を競い合う、まさに“トーマス物語”。「やっぱり、無理」と、X君は、自分の「電車」を「線路」から下ろして、抱えるように持ち運び、また床の上で「電車」を運転しだしたのです。

しばらくすると、『やっぱり、「線路」で走らせたい』、そんな想いが乗っかったのか、X君は、また別の場所から、そ~っと、「電車」を「線路」に乗せて…運転再開です。そこには、やはり同じクラスのB君がいました。B君は、「電車」を走らせるより「線路」をつくるのに興味があるようです。長い時間、ず~っと「線路」づくりに没頭していました。どんどん伸びる“パズル”をはめ込むような面白さに浸っている感じです。X君が、自分がつくった「線路」の上で「電車」を走らせてくれることに、B君は大歓迎。嬉しそうな表情で「線路」づくりに励んでいました。まるで、自分が作ったお料理を友達が、美味しそうに食べてくれる、そんな嬉しさを感じているようでした。

X君の「電車」の「旅」は、さらに続きます。

今度はそこへ、また別のC君の「電車」が接近してきました。X君の「電車」と衝突しそうになりました。2台の「電車」は停止します。特に、言い争うこともないままX君は、C君に譲るかたちで、また自分の「電車」を床に下ろして、別の場所へ移動させました。それからX君は思いついたように、時々、自分の「電車」を「線路」の上に乗せて遊びます。けれども友達の「電車」と出会うたびに「線路」から取り出して、衝突を避けるのです。X君は、この“動作”を何度か繰り返していました。果たして、この“動作”には、どんな“心情”が潜んでいるのでしょう?

これは誰にも、本人にさえもわからない深層心理の仕業です。『敷かれたレールの上を走る人生なんて…』と、冒険ができず、無難に暮らす生き方の例えとして、表現することがあります。

『敷かれたレールが単線ならば、道中、必ず衝突が起きる! X君は、実際、衝突を嫌って避けました。彼は、やさしい子? 賢い子? 押しの足りないひ弱な子? 敷かれたレールの上で走ることに惹かれながらも、こだわらないで、冒険に出ようと試みた!』 そんな風にも見えました。

X君の「電車」の「旅」も、いよいよ終盤です。

同じクラスのD子ちゃんが、別のコーナーから、物珍しさに牽引されてやって来ました。D子ちゃんは「線路」や「電車」で遊んでいる友達の様子をじっと眺めます。そんなC子ちゃんに気付いたX君は、何も言わず、唐突、自分の「連結電車」をすべてD子ちゃんに手渡してしまいました。D子ちゃんは、「なんでくれたんだろう」と不思議な表情をしたまま立ち尽くします。

手渡された「電車」を持つD子ちゃんと、X君の間に、奇妙な空気が流れます。

(D子ちゃんだから、貸してあげる)(きっと面白いよ)(ぼくなら、もう、いいよ)(もう、飽きた)、X君の気持ちを推し量るのは、困難です。ただ、D子ちゃんに「電車」をあげたX君は、笑顔がいっぱいで、得意気な表情でした。 (D子ちゃんのこと、お気に入りなのかなあ~♡)

そしてX君は、スキップなんかして、別のコーナーにお出かけしてしまいました。X君は、もうこの時、自分自身が「電車」になって、自分でつくった心の中の「線路」を走っていたのでしょう。

きっと、「快速電車」になったつもりで……。    【観察&話題提供:園長 徳畑 等】

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ユナタン:18≫ at 池田すみれ

~ ふとした きっかけから ~

平成28年6月22日 片山喜章(理事長)

0歳児ふじ組には、現在8名の子どもがいます(7月に2名入園します)。園全体の規模からすれば、人数は少なく、その割に保育室は、広すぎるほどひろい、といってよいと思います。

「ひとりひとりの発達を見極めて!!」「個々のその時々の状態を把握して!!」「無理せず生活習慣の自立を促します!!」等々、それぞれの保育者は、その子その子に適した保育・教育の在り方を探りながら、日々の実践に挑みます!!!(ふっ~)……

と、心がけますが、常にそんな精神状態で子どもと向き合っていると、長時間、園生活している子どもたちも保育者集団も息が詰まり、疲れてしまいます。息抜きも大事です。

と、いうよりも息抜きしながら《押さえどころ》はおさえて、後は、お世話をしたり、共に遊んだり、子どもどうしがふれあい(学びの源泉)、子どもも保育者もリラックスし、くつろげる風土をつくることが何より大切で、このクラスには、それが一層強く、求められていると思います。

そんなある日の事です。まだ歩行が確立していないAくんに、担任は、食後のエプロンとタオルを渡して「ないないしてきてね」と伝えました。いつもなら歩行が確立していないので、Aくんのエプロンとタオルは、担任が片付けていました。

その後、時間にして、1分もたたない頃です。何気なくAくんが居た場所に目をやると、そこにはAくんの姿はありませんでした。(なんと)Aくんは、自分のエプロンとタオルを「汚れ物ケース」に入れようと移動していました。そこまで、ハイハイして行ったのです。しかも、担任の顔を見て、微笑んで、まるで“どうや、たいしたもんやろー!”と言わんばかりに見えました。

担任の頭の中で、いろんな考えが駆けめぐります。「自分で汚れ物を片付けに行くのは、歩けるようになってからで良い」という考え方だったのですが、“自分で行くように”促してみるとAくんは、まだ、十分、歩行が確立していなくても、自分のエプロンとタオルを「汚れ物ケース」に自分で持って行って入れたのでした。

と、いうことは、今まで“してあげる”だけの(0歳児)保育は、必ずしも、Aくんにとって、良くなかったのかもしれない…。今回、ほんの一瞬の出来事から、保育(特に乳児保育)の根本を考える大きな“きっかけ”になりました。こんなふうに考える姿勢も《押さえどころ》と捉えます。

それに気づいてからは、担任たちは、Aくんに「自分で行って来て~」と言葉をかけます。

大人ならついついメンドクサイ事も、0歳児(満1歳のお誕生日は迎えています)の子どもでも、自分でできることは“自分でやりたがる”のです。この子どもの気持ち(欲求や願い)に応えてあげることは、とても大切な保育の《押さえどころ》です。

数日後、「汚れ物」を片付けに行こうとするAくんは、とうとう、自分一人で立ち上がり、「汚れ物ケース」に向かって、遂に、第1歩が出たのでした。拍手喝采の瞬間でした。自分でしたいこと=「目的」に向かう気持ちは歩行する力をも促すのだと子どもから学んだ担任たちでした。

“たまたま”の出来事はこの後にも、起こりました。1歳児、2歳児は、「毎日サーキット」をしています。身体機能全般と意欲そのものを促すルーティンの取り組みです。0歳児ふじ組の子どもたちも、歩行が確立した子どもを中心に、1人~3人くらい、遊戯室までお出かけして1歳児あか組の「毎日サーキット」に参加することがあります。それまでAくんは、歩行が十分でなかったので「毎日サーキット」に誘われることはありませんでした。そして「汚れ物ケース」に歩行で移動しはじめても、尚、担任たちは「毎日サーキット」に誘おうとは考えが及びませんでした。

「Aくんが、歩行しだした」=「ならば、あか組の毎日サーキットにお出かけしよう」と即刻、教育的な考え方に立てないのも現場の姿ですが、責められるようなことではないと思います。

しかし、ある朝、Aくんは機嫌を損ねて、いつまでも“ぐじぐじ”としていました。その姿を見て、担任は“そうだ!気分転換になる”と思い立って、サーキット会場(遊戯室)に連れて行きました。到着するなり、顔色がかわり、表情を明るくキラキラさせて、自らサーキットのコースの中に入り込んで、斜面をのぼり、遊び始めたのです。これも、担任が意図して「サーキット」に誘ったのではなく“たまたま”Aくんが機嫌を損ねたので、その“対応策”としての「サーキットへの参加」だったのです。私は、Aくんの機嫌の悪さは、担任の先生たちに対して「サーキット、させてくれよ~」と伝えるメッセージではなかったのか、と感じています。

この姿を見て、今度は、担任から、1歳児あか組が行っている「毎日リズム」に、Aくんを誘いました。もちろん、それまで1度も参加した経験がありません。参加してすぐに「うさぎ」の動きにとびつきました。両手を上げて、跳ねては倒れ、跳ねては倒れ、何度もにこやかに「うさぎ」を模倣していました。これらは、Aくん自身の発達や成長の姿ですが、「毎日サーキット」や「毎日リズム」や、そこに居た1歳児の子どもの動きに導かれた成果である、とも解釈しています。

0歳児保育について、日本のエライ人たちでさえ、「家庭ですべき」という神話の中にいます。

「はいはい」ができる広いひろい環境がある保育室。さらに「毎日サーキット」と池田すみれの特徴として「毎日リズム」を実践していること。毎日まいにち、息抜きはあっても、日課として手抜きをしないこの園は、かなり“いい線”行ってる!と思います。 【話題提供:池田 由似子】