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片山喜章のページ ~思い・願い・提言~
2018年6月13日 水曜日

【ユナタン45】
~ おまけの おまけの きしゃぽっぽ(ノンタンシリーズより) ~

2018年6月13日  片山喜章

5月の晴れた日、3歳児クラス黄組は隣接する公園に出かけました。公園にはブランコがあります。4台のブランコは行儀良く並んでいました。そこへ子どもたちがどっと群がります。園にはない遊具なのでトラブルが予想されます。ということは保育として好機が訪れたと解釈できます。サリーは“自分が!乗りたい”という思いを強く現わして友達を次々に跳ねつけます。友達に向けて手を振り上げようとしたその時、先生はその手をつかんで止めました。するとサリーはその手を払いのけて睨みつけます。サリーの目からは涙がこぼれています。憤りやら悔しさやら自戒の念やらが混じりあって胸がいっぱいです。そして、思いのすべてを吐き出すように「バーカ」と言い放って別の場所に駆けだしたのでした。

 5分くらい時間が過ぎて、サリーはまたブランコのところに戻ってきました。
“やっぱりブランコに乗りたい”。でもブランコに乗るには“友達に乱暴に振る舞ってならない”。けれども早々に素直にはなれない。それでも“素直にならないとブランコには乗れない”。“友達は受け入れてくれるかな”“どうしよう”。 
少しの間、ジトっとブランコを漕いでいる友達を眺めていました。サリーなりの葛藤が痛いほど伝わってきます。サリーは意を決したのか、強い調子で「貸~し~て!」と言いました。友達は知らんふりです。ふたたび「貸~し~て」。やはり返事がありません。サリーがベソをかくような表情で立ち尽くしていると隣のブランコの前にいたベティが「キキちゃん、そろそろ替わってもらえる?」とお願いする声が聞こえました。キキは「いいよ~」と返事をし、すぐに交替したのでした。

その様子をじっと見ていたサリーにとっては驚きの光景だったかもしれません。
サリーは思案して…しかし思い切って「ララちゃん、そろそろかわってもらえる?」と言葉にしました。その言い方は穏やかでした。ララはサリーの顔を見つめて一瞬、間をおいて「いいよ」と返しました。で、さっとサリーと替わってあげたのでした。 
なぜでしょう。ある程度、ブランコに乗って満足したからでしょうか。少し飽きたからでしょうか。さっき乱暴だったサリーが今度は殊勝な表情をしているのを見て譲ってあげようと感じとったのでしょうか。いずれにしても先生の介添えが無い状況でしぜんに“交替しよう”という空気と気持ちが生れたのでした。
念願のブランコに乗れた事とララに替わってもらえた事が相まってサリーは嬉々とした表情でブランコを漕ぐことができました。すると隣のブランコから「わあ~」と笑い声がします。キキがベティの背中を押してブランコが大きく揺れたのです。笑い声は連鎖を誘引します。その隣でも待っている子が漕いでいる子の背中を押しました。サリーも「だれか、おして~」と声を張り上げます。何人かの子が近寄ってきました。サリーは背中を押してもらってご機嫌です。しばらくすると端っこのブランコから「こうた~い」の声がしました。交替する行為も連鎖します。わずか15分前に「バーカ」と毒づいていたサリーも交替してあげていました。

「交替する」「順番を守る」などの規範は「お題目」のようにくり返し言ってきかせることで体得できると信じる人は年配に限らず若い世代にも多いです。「型の文化」 「形」を重んじる慣習などの日本の文化をそのまま人間教育にも当てはめようとする教育関係者の思考そのものが誤謬であり教育界の怠慢だと思います。それが結果的に逆効果になっているのが現代です。不祥事続きの国や企業や部活の組織文化の根底にあるのは、真の規範意識の希薄さと事なかれ主義と上意下達の価値観です。“思いやり”を授受し合う体験と関係性が規範意識を育むと考えたいですね。

「ブランコは順番に交替して乗りましょう」という言葉はどんな子でも頭の中で理解できます。時には叱られて頭で理解しても心持ちとして人間性のなかに溶け込まなければ育まれないと思います。この日のサリーの体験はどうだったでしょう。
元々サリーの中で眠っていた規範意識が仲間たちとの物語によって浮かび上がったように思います。乱暴な振る舞いが改まらない子どもの姿は、その時々の気持ちに寄り添えなかった大人たちの振る舞いの賜物でしょう。現代社会に適応できていないのは、成熟が待望されるのは、多数派を占める今の大人たちの人間性です。

その後、公園では1台のブランコに複数の子どもたちが群がっていました。順番を待つ子も増えています。「順番なんやで~。背中押して~、順番なんやで~」といきいきと響いていたのはあのサリーの声でした。先生から教えられた言葉としての「じゅんばん」を叫んでいるのではなくて“順番を守ることでみんなが同じように楽しめるんだ”と体感しそれを全身で表現している、そんな感じ方、受けとめ方ができる大人に育ちたいものです。   【資料提供:いけだすみれこども園:溝上宏子】
※ 次回、6月27日の事例提供は世田谷はっと保育園です。

2018年5月23日 水曜日

【ユナタン4-44】
~ 思いやる気持ちはどこから? ~

2018年5月23日  片山喜章(理事長)

前回配布(5月9日)の【ユナタン3】では、0歳児のミイと1歳児のケイが朝の室内遊びの中で玩具のポットを取り合う場面を紹介しました。自分も相手も共に譲れない葛藤場面で“保育者の包みこみ”によって双方が“葛藤状態”を和らげ、最後に譲ったケイが担任の胸のなかで興奮を鎮めて納得の表情を現わしました。
それを0歳児(満1歳)なりに道徳心を感得したように思いました。子どもどうしがトラブルになった時、自分の気持ちを伝えながら相手の気持ちも理解して双方が解決に向かおうとする空気の醸成、ここが保育の最も難しいところだと思います。

子どもに限らず人はトラブルに出遭うとカッとなって心が荒れます。荒れた気持ちは、それを理解して落ち着かせてくれる誰か(何か)が居なければ回復しません。決まりやルールを言葉で教えられだけでは感得には至らないどころか、教えた人との関係性によっては、善悪をわかっていてもさらなるトラブルを引き起こすこともありえます。現代人の感受性はよりデリケートになり、その傾向は顕著になった。そんな社会観、人間観、子ども観、教育観、保育観を抱いているところです。
今回紹介するのは、今年2月末の1歳児の姿です。どうしてこのような“思いやりのあるような行動”が現れ出たのか、私なりに解釈してみました。

1歳児クラスのお部屋の隅から笑い声が聞こえてきます。ミキ、ユミ、コウジ(いずれも仮名)の3人が“ままごと”をしていました。3人は“しゃもじ”を手にしておしゃべりしながら笑っていました。楽し気な様子に気づいたヒトシ(仮名)は“ままごとコーナー”の“しゃもじ入れ”をのぞきました。自分も仲間に入れてもらいたかったのです。ところが、“しゃもじ入れ”の中は空っぽ。「なぁーい」と声をあげたヒトシは、3人に向かって「かしてー」と訴えます。コウジとユミはそれを聞いて「あかん」と言って走りだしました。「かしてー」とヒトシは2人を追いかけます。2人とも「あかん…、あかん‥」と笑いながらまるで追いかけられることを楽しんでいるようでした。ヒトシは今にも泣きだしそう。その様子を見ていたのは担任と、もう1人、ミキでした。

担任はすぐにヒトシの傍へ行って「ヒトシくん、貸してって上手に言えたね」と声をかけました。ヒトシは再びコウジとユミに向かって「かしてー」と言いました。
「おともだち、まだ遊ぶかなあ。貸してもらえなかったね。残念だね」と担任がヒトシの気持ちに共感するとヒトシは声を荒げて「かしてー」と泣きだしました。
と、その様子を見ていたミキは自分が持っていた“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”の中に入れてからヒトシの傍まで行ってツンツンと肩を突いて「ヒトシくん、あるやん」と言って“しゃもじ入れ”を指さしました。ヒトシは「えっ」と怪訝な表情で“しゃもじ”が入っているのを確かめました。 さて、それから・・・

なぜ、ミキの思いやりの行動が現れ出たのでしょう。担任は「ミキの粋な計らい」と綴っていますが、おそらく日頃の保育スタイルと保育者の基本姿勢が強く影響していると考えられます。どのクラスもグループを基本に過ごしているのです。
1歳児は3人1組の固定のグループで1つのテーブルを使います。ご飯の時も3人が揃うまで待ちます。揃わない時はそれに気が付いた子が誘いに行きますが、担任は自分から声掛けせずに、子どもが気づくような微妙なかかわりを意識します。お茶を飲む際もテーブルの中央に重ね置きされた3つのコップをメンバーの誰かが配ります。誰がするのか決まっていませんが、毎日、誰かがする。それが不思議です。

してあげるorしてもらう。子ども同士がアウンの呼吸で役割を担います。トラブルもありますが毎日くり返されます。ここが鍵です。してあげた子、してくれた子、双方の顔も名前もはっきり理解している日々が“思考力”を育て“思いやり”の源泉になっていると解します。「家族的な」とはまさにこのような状態を差すのかもしれません。3歳、4歳、5歳児では「自分たちの事は自分たちで決めるルール」が日常の柱になっています。1つの事を決めるのに日課のように40分から50分の時間をかけて話し込む姿が見られます。小さな声でゆっくり納得いくまで話し合いを促す保育者の姿を、いつも目にします。観ている私の方がイラッとするくらいです。この園文化が子どもの思考力向上を下支えしていると実感(体感)しています。

それから……ミキは仲間と遊びたかったのです。追いかけ合いを見ていても楽しくないと感じたミキは自分の“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”に突っ込んでヒトシに取らせて遊びの続きをしようとしたのでした。思いやる気持ちというより思考力の芽生えです。それは子どもの行為と自身を洞察する担任とグループを強く意識した子どもの世界の方がより確かに育まれるのではないか。子どもの姿を眺めながら、そんな風に思考します。 【資料提供:ななこども園(大阪府:藤井寺市)山本美千代】
※ 次回は6月13日:池田すみれこども園(大阪府寝屋川市)の予定です。

2018年5月9日 水曜日

【ユナタン3-43】
~ 取り合い~譲り~譲られる葛藤 ~

2018年5月9日  片山喜章(理事長)

「道徳」が教科になったことで様々な議論が巻き起こっています。昨今の世界情勢や政治問題、企業の不祥事を見聞きしている子どもたちは、何を感じているでしょう。とりあえず大人の前ではお利口さんに振る舞う術を会得し、ある時期、ある場面で爆発する。そんな副作用を案じます。「道徳」の教科化は子どもの人権や能力に対する社会の過少評価の現れだけでなく、明日の日本や世界に対する私たち自身の漠とした「不安の解消策」の1つではないかとも感じています。

幼い子には“良い”“悪い”の価値観を伝える事が教育であると理解されているようですが、道徳や倫理は(他者の中の)自己の生き方を自問自答するような経験を重ねながら感じ取り学び得るものだと思います。子どもどうしの関係の中に学びの場があり、大人は口出しする前に葛藤する時間をあたえて見守る事が大切だと考えます。今回は、その見守った例です。今年1月の朝の乳児の保育室でのことでした。

朝夕は、0歳児から2歳児まで合同で「コーナー保育」をしています。
0歳児クラスのミイ(仮名:1歳10か月女児)も、2歳児クラスのケイ(仮名:3歳1か月女児)も「おままごとコーナー」で互いに影響を受けているような、いないような、乳児ならではの微妙な関係性、空気感で過ごしていました。(朝からごっこ遊びが大賑わいでスゴイな。乳児も異年齢のコーナーで過ごすのはなかなかいいものだ)と0歳児のミイの担任は微笑ましいその光景を眺めていました。

突然「ぎゃー」「ギャ~」と叫び声が飛んできました。ミイとケイがポットの取り合いをしています。どちらが先に持っていたのかは定かではありませんでした。
ミイは「ぎゃーぎゃ~」と叫びながら手を放さず、ケイはケイで「だめ、これは私が使ってた!」と大声を出して主張し、1つのポットにくっついた2つの手は、拮抗状態を保ったまま、双方譲らず、叫び声だけが響き渡ります。
担任はただ黙って見守りました。ケイはミイの担任の視線を気にしたか、ごく自然に手の力を緩めてしまったのです(さすがお姉さん?)。ポットはケイの手から離れ、ミイはグイっとポットを引き寄せて我が物にし、表情は興奮気味でした。
ポットを譲ってしまった2歳児のケイは「うわ~ん」と激しく泣き始めました。
ケイはとっても悔しそうです。ミイを恨めしそうに睨みながら泣き続けます。睨まれた方のミイは首を横に振りながら後ずさりします。殺気みなぎる光景です。
ポットを手にし、思い通りになったはずなのにミイの表情は固いまま。で、目はじっとケイを見つめています。担任は殺気を取り除くかのように笑顔をこしらえて、ミイに「ケイちゃん、泣いてるね」と話しかけました。けれども年下のミイは年上のケイから目をそらさずにポットを手にしたまま立ち尽くしています…。どうなるのだろう…と担任は黙って様子を見守ることにしました。するとミイはゆっくり、ゆっくり、とケイに近づいていきました。(おや?どうする!)

0歳児のミイは(考え抜いた揚句)、重苦しい表情で「ハイ、どうぞ」とポットを年上のケイに手渡したのです。(やさしい!?)“自分が泣かしてしまった…。ポットを返した方がよさそうだ‥”と年下のミイがそう感じ取って譲ったように見えました。そしてすぐ担任の胸に飛び込んで〔ハイどうぞシタヨ〕と片言で報告します。けれどもその表情はたいそう落ち込んでみえました。そのあと、ミイの姿は担任の膝のうえに在りました。顔を担任の胸に押し付けていました。
10分後、2人に明るさが戻ってコーナーに居ました。ミイもケイもその後、何もなかったように、それぞれがそれぞれに朝の時間を愉快に過ごしていたのでした。

譲ることが尊いとは限りません。まして0歳児、2歳児はどうでしょう。双方とも強い葛藤の末の不本意な選択だったに違いありません。なぜ譲ったのでしょう。
担任はミイの母親的な存在です。ケイは「自分がお姉さんだから・・・」と感じたのでしょうか。ミイも担任が傍に来たので「譲らなきゃ……」と抑制の気持ちをはたらかせたのでしょうか。もしも担任が折り合いを付けてほしいと願い、言葉で「譲り合い」の規範を伝えたらどうなったでしょう。担任も葛藤しながら見守ったことで2人には“自分で深く考える経験≒葛藤”を味わえたのかもしれません。

このケース、担任の目の前で双方がつかみ合いに至ったとしても、その経験は有意義だと思われます。正解はなく複雑な心模様を描いてこそ道徳心の芽生えです。
「信頼できる大人の存在と葛藤し見守る態度」≒「規範の代替」であり、それが「強い葛藤」≒「道徳心」を双方にあたえた良い事例だった、と私は解釈します。
【資料提供:みやざき保育園(川崎市):池田麗佳】
※ 次回5月23(水)は、ななこども園(大阪府)です。

2018年4月25日 水曜日

【ユナタン2-42】

~ 思いを伝え合うことが解決策 ~

2018年4月25日  片山喜章(理事長)

  なかはらこども園(神戸)の去年の3歳児クラスの出来事です。
昨年12月、3歳児のマッチとトシとヨシオの3名(いずれも仮名)がお医者さんごっこをしてよく遊んでいました。よく遊んでいる!ということは同時にトラブルも起こりうる!という事です。そのトラブル体験(ケガのリスクは回避)は保育者の「見守る介入」によって良い育ち=教育になりえます。今回は、その事例です。

予想通りトシとヨシオが注射器を使い始めると、マッチはお気に入りの注射器が欲しくてほしくて何の断りもなく奪い取ってしまったのです。もちろんトシもヨシオも黙ってはいません。マッチから取り返そうと言葉で応酬します。するとマッチは2人を交互に叩き始めました。その途端、トシは声をあげて泣き叫び、ヨシオはその場から逃げ出して先生のところへ駆けていき、マッチの乱暴を訴えたのです。

「どうしたかったの?」と先生は、3人それぞれに尋ねましたが、3人とも“欲しかった”と答えるだけで話はすすみません。ここで先生の介入の仕方が問われます。このケース、「解決の主体」は先生なのか、3人の当事者なのか、そこが保育のポイントです。例えば、先生がマッチに「叩くのはダメでしょ。お口で言ってね」「順番に使おうね」と諭すのが一般的ですが、当事者どうしのトラブルに先生が立ち入って裁くことが果たして教育と言えるでしょうか。みなさんは、どう考えますか。

先生は、特に「こうすべきでしょう」と断定的な提案をせずに「何か嫌なことがあったらお友達を叩かないで、センセイに話しにきてね」「ちゃんと聞くからね」とマッチに話し、トシには「嫌なことがあったら、泣かないでお話してね」ヨシオには「トシが嫌なことをされたら、マッチにお話ししてね」と伝えました。
つまり“トラブルで生じた気持ちは聞いてあげるけど、解決するのは自分たちだから話し合って、解決してね”というメッセージを送りました。事あるたびに同様のメッセージを送り続けました。“3歳児にはムリ”“先生が言って聞かせる事が教育”と考えるのが常識ですが違います! トラブルにならないように大人が言って諭すことよりもトラブル後、当事者の心に生じた気持ちを当事者間で話し合いながら、解決しようとする“意識”や“行為”を促すことが本物の教育だと思います。
それから、3か月を経た今年の3月のことでした。マッチ、トシ、ヨシオの3人はまたお医者さんごっこをして遊んでいました。そしてまたまた注射器をめぐってマッチとトシが取り合いをはじめたのです。ヨシオは仲裁に入りましたが、無理と判断したのか、また、先生に伝えにいきました。まさにデジャブです。

少し迷った先生は、子どもたちの話を逐一聞くことをやめて「3人で話し合うことはできる?」と尋ねました「できるっ」「できる~」と声が返ってきました。
そこで3人の傍で逐一話を聞くのか、それとも距離をおいて子どもだけで話し合うのを見守るのか思案しました。あれから3か月“子どもたちだけでどんな会話をするのか聞いてみたい。どうにもラチがあかないときは自分が関わってみよう”と腹をくくって「自分たちで話し合ってくれるかな」「後でどうなったか教えてちょうだい。先生聞くからね」と伝えました。先生は少し距離をおいて子どもたちの様子を観察します。子どもたちは“見られている”と感じているようでもありました。

3人だけで話をする姿が見られて、先生は嬉しくなりました。時折、話し合う声が漏れ聞こえてきます。「ツカイオワッタラ~…」「サキニ~…」。マッチとトシがデュエットでもしているかのように交互に話しています。その横でうなずくヨシオの姿は、まるで、2人に合わせて伴奏しているようで‥‥…。それから5分が経過しました。

マッチとトシがやってきました。さてさてどんなふうに解決したのでしょう。
マッチ:「先に、トシに貸してあげる。トシが使い終わったら貸してもらう」
トシ :「先にぼくが使うことになった。使い終わったらマッチに貸してあげる」
先生は「ホントに納得した?」と尋ねました。子どもの「答え」に突っ込みを入れることで思考力が一層刺激されるからです。2人とも笑顔で「ウン」と答えます。
その後、トラブルもなくヨシオを交えた3人で注射器を使って遊んでいました。お医者さんごっこだけでなく、大人に口出しされずに話をして合意をつくり出せた経験(結果は二の次)も3人の子どもにとって有意義(教育)だったと思います。
保育の場面だけでなく社会全体の物の決め方として大切にしたい事です。
それにしても、この注射器、中にどんな良薬が注入されていたのでしょう?!
【資料提供:なかはらこども園:牛島夢恵】
※ 今後、ユナタンは毎月、第2、第4水曜日に発行・配布します。
次回(5月9日)は、みやざき保育園(川崎市)から【事例】をいただきます。

2018年4月17日 火曜日

【ユナタン1-41】
~ 新年度早々のエピソード2つ ~

2018年4月17日  片山喜章(理事長)

今年度も「子どもたちの姿」と「その解釈」を綴った【ユナタン】がスタートします。今年度は10施設ある法人のこども園、保育園(他に児童館を運営)が、1園ずつ輪番で話題提供し、そこに私なりの解釈を加えてお届けします。

 今回は、新年度早々私が直接、かかわった2つのエピソードです。

  『導きのスキル(真似っこ。ルールのアレンジ)』
4月2日、新年度初日、A園の4歳児クラスの保育を観察していました。新しい担任はお部屋でサークルタイムをしたあと、子どもたちを1階のランチルームに降ろしました。子どもたちと集団ゲームをするというのです。クラス全体でルールのあるゲームをするのは、絵画や製作等、個々が対象物に向き合って取り組む活動と異なり、ゲームのおもしろさとルールの共通理解が欠かせません。保育者の展開力が弱いと、ぐちゃぐちゃになってしまいます。実際、保育者の強い指示や言葉の力で子ども集団を何とか引っ張っていくこともあり得ます。さて、さて…。

だらだらと、1階のランチルームへ降りてきた子どもたちに担任は、いきなり、『だあるまさんが、こおろんだ』と声高に言い放ってひとりでシェーのポーズをして見せました(おそ松くんのイヤミのポーズ)。突然の姿に子どもたちも思わずシェーのポーズを真似てしまいました。表情は輝いています。その後も担任は『だあるまさんが転んだっ!』と言い放っては次々に様々なポーズを変えてくりかえします。
子どもたちも“次はどんなポーズ?!”“次は?”と担任のリズミカルでコミカルな動きを期待し、そして真似っこをします。ありきたりのネタですが、子どもの“真似したい”“おもしろい”の気持ちを引き出した担任の力だと私は捉えました。

次に担任は後方に用意した2枚のマットに子どもたちを移動させ、自分は反対側の扉の方へ行って子どもに背中を向けて鬼になります。『だあるまさんが~』で子どもたちは鬼に駆け寄って『転んだ!』で振り返ると子どもたちは止まります。
昔からある遊びです。しかし本来?の「だるまさんが転んだ」と違います。誰もアウトになりません。子どもたちは鬼の居る付近まで駆け寄ってそこに並べられたカラーコーンにタッチするとまたマットに戻ってスタートします。
ただ単に鬼の前にあるカラーコーンをタッチすればマットに戻って再出発する。ゴー&ストップの動きを自分のペースで何度もくりかえすだけなのに、4歳児クラス初日の子ども集団がほぼ全員、楽しめます。その年齢の興味を把握したルールにアレンジして展開する事、これは保育者のスキルの大事な面だと私は捉えます。

『コーナー・ゾーンでの保育者の仕事』
コーナー・ゾーンの遊び環境は、現代の保育において欠かせない基本のキです。
4月5日、B園のコーナー・ゾーン活動でのことです。朝10時、3歳児~5歳児の80名くらいの子どもが一斉にコーナーで遊び始めます。その場で作って販売するスイーツ屋さんがおもしろそうだったので私はイートイン用の椅子に腰かけてみました。間もなく黄色のエプロンと花柄の三角巾をまとったKちゃんがお皿にケーキセットを綺麗に盛り付けてやってきました。私は笑顔控えめでイチゲンさん気分で緊張感を漂わせて店員さんの方に目を合わせます。ここは居酒屋ではないのです。

「うちのケーキセットおいしいですよ、どうですか」とすまし顔の店員さんが声をかけてくれました。パティシエらしいです。私がイチゲンさんらしく浮かない表情で「じゃ、お願いします」と返すと、Kちゃんはスプーンとフォークを添えてケーキセットを置いていきました。私は(心得として)誰も見ていなくても、そのケーキをほんとうに美味しそうに口元にもっていき、口だけをもしゃもしゃさせながら、美味!という表情をつくって独りうなずいていました。私の意識はもはや観察者ではありません。するとまたKちゃんが近寄って来て「いかがでした」と尋ねました。私はマジに美味しかったと答えるとKちゃんはふたたび豪華なケーキセットを両手に乗せてきたのです。表情豊かに「これ、うちの新作なんですよっ」と甘めの声で勧めるではありませんか。おすすめされると断れない性分の私は「はっそうですか。では、いただきます」と押され気味の受け応えしかできませんでした。

私の存在に警戒心を抱いていた3歳児のNちゃんは、このやり取りを見ていたようです。まるで珍獣に餌をあげるように恐る恐る私に近づいて自分の作ったケーキをそっとおいてさっと逃げて距離を置きました。無言でケーキを食する私の姿を見て安心したのか、その表情から警戒心が抜けました。大人の真剣な演技の成果です。このお店の品々はベースが本物仕立てで品数が多くトッピングも豊富です。トングやラップも本物です。このような手の込んだ環境づくりは保育の重要な一面です。

2018年3月13日 火曜日

〔ユナタンDX-9〕 №40
~ 卒園式の季節 ~

平成30年3月13日  片山喜章(理事長)

卒園式の季節です。もう終わった園もあります。子どもたちは当たり前のように巣立っていきますが、私たちは、卒園する子どもの名前と顔を一人ひとり思い起こしながら、その子が経験した園生活全体を振り返る機会を得ます。

私にとっては、ひとときの出会いだったかもしれませんが、それでも印象深い物語をたくさんの子どもたちからいただきました。年々、その時々の子どもの気持ちがよくわかるようになってきました。元来、幼児性満載の自分自身の感性が時代の空気にぶつかると、今の社会の不条理や不合理を退治したくなります。それこそが私の保育者としての努めだと思います。子どもたちには、これから先、何があってもくじけないで逞しく成長してほしいと願います。

「昔はよかった、なのに、今の若い人は!」と何かにつけて回顧的に“現在”を愚痴る大人たちが居ます。いつの時代でも、それこそ古代ローマの時代から居ました。それはそれで、愚痴の数だけ大人になった証拠なので批判はしませんが、私は、ある意味「昔の方が断然、良くなかった」と思います。「今の方が個々の市民は深く考えて行動できる自由がある」と感じています。

江戸時代、農家に生まれたら武士にはなれない宿命を背負わされます。職業の自由は極端に制限されていました。長きにわたって世界中、日本中、至る所でテロ(虐殺)もありました。しかし“現在”は概ね平和であるといえます。
その分、自分の意志の力で行動することが要求されます。自由を得ている分、苦悩もくっついてくる。そういう意味ではシンドイと言えるかも知れません。

これから巣立っていく今の子どもたちはどうでしょう。その子によって逞しくなれない場面もありました。それが、その子の“今”として受けとめられたり、なかったり、担任の先生もその子同様「葛藤の物語」の主役でした。
私は長年、地域の小学校の評議員をしています。私たちの何倍も厳しい環境で勤められていると実感し共感もしています。学校の中は「昔はよかった」の時代がそのまま居座っています。昔ながらの規則や規律が温存されています。

今と「昔」のねじれによって先生のなかには子どもに不条理な暴言を吐いたり意味のない規律を押し付けたり、それを保護者が我慢し、遂には我慢できずに爆発したり、悪循環が渦巻く現実を目の当たりにします。それ故に卒園する子どもたちには「自己愛をテコに逞しくあれ!」と願い、期待もしています。

学校教育の問題は国の役人が鍵を握っていますが、机上で整合性を図りながら文言づくりに励んでいるとしか思えないのが現在です。優生学を基調にしたMustづくめで具体性が乏しい。「昔」の考え方を一旦捨て去って、今の社会に適合したポジティブな教育観をつくり出す情熱や逞しさが無い(忖度意識に負ける財務省の書き換え問題然りです)。とどのつまり、人間に対する洞察が無い。そのせいで、第一線で子どもと接する先生たちは苦闘し若くしてリタイヤする比率(資料を見ました)があがっています。ほんとうに第一線は辛いです。

保育や幼児教育において、最近、ほんとうに大事にしたいな、と考えるのは、理屈抜きに面白い活動や経験を数多く重ねるということです。一斉保育であろうと異年齢保育であろうと、保育者の引っ張る力が強くても、それが面白いかどうか、そこを問いたいです。自分が参加して面白く感じた経験こそ、時を超えて逞しさに変容すると考えるからです。日々の生活で規律や規制が厳し過ぎると面白いと感じる事の質を落としてしまうと思います。

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今年度のユナタンは、これでひとくぎりにします。次年度は、すべてエピソードになります。リアルな子どもの姿から保育を見つめます。
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過日、管理職だけでなく全職員に配布して、音読しながら活用するマネジメントブック「糧」が出来ました。みなさんにも配布します。

2018年2月27日 火曜日

〔ユナタンDX-8〕 №39
~ 「無関心」と「ひとごと感覚」がつくりだした改定指針と解説書 ~

平成30年2月27日  片山喜章(理事長)

「保育所保育指針」や「認定こども園要領」が10年ぶりにこの4月から改定されます。10年に1度の改定のたびに常々訴えているのは「文言のすばらしさ」と「埋めようのない違和感」、そのギャップです。かつては「保育実践」と「指針の文言」をマッチさせてくださいとお願いしていました。子どもを直接保育する保育者にとって実践の指針になりえていないからです。「…しなければならない」「‥することが重要である」と硬い文章で書き連ねています。「それは違う!」という反駁ではなくて「それって具体的にどういう事?」という疑問が湧き出ます。そこが苦慮する所なのにその問いには「そこはそれぞれの園で工夫してください」という回答が返ってきます。我々第一線が無関心になって当然です。
今回の改定の3年くらい前から「改定するなら過去10年、どのように活用されてきたのか、ヒアリングやリサーチが必要」といくつかの紙面で訴えてきました。賛同も得ました。が、指針は大臣告示だからそんなシロモノではないという奇妙な正論をぶつけてきます。

昨今は、諦念の境地を超えて、なぜ、保育の最前線に適さない保育指針を作成するのか、役人や御用学者の思考の構造を考えるようになりました。IQの差とEQの差でしょうか。同時に、いま、まさに(3月6日に関西でキック・オフ)、法人内で保育と運営指針(日々の保育と運営の相補性を満たすオリジナル)をつくりださんとしているところです。
いわゆる「昭和の保育」や「平成の園運営」を凌駕し止揚する園文化の創造です。追い追い、お知らせします。これまで保育界ではこんな突っ込みがされていました。
【園として、どんな子どもに育ってほしいか】
それに対して、私たちは“よく考える子ども”とか“物怖じしない子ども”を標榜してきました。では、そのためにどんな過ごし方をするのか、そこがとっても難しいのです。
ある意味、職人技です。様々な事を子どもどうしで話し合ってわくわくしながら決めていく。この単純なことさえ第一線ではなかなかできない。そんな教育を受けて来なかったからです。保育の課題は「上意下達の画一主義に未だに縛られた大人社会のあり方」と連動しています。指針がそこに言及しないのは指針自体がこの旧社会の代弁者だからです。

“よく考える子ども”も“物怖じしない子ども”も先生の提案した活動が面白くなければ「面白くない」と訴えて、やめる。となると保育者にとっては厳しいものになります。そのかわり面白ければ興味を深めて“予定外”の活動に発展する。その予定外の活動をすばらしい保育と園全体で称賛する。でなければ保育者は成長しないし、保育や教育という社会的営みが衰退します。「マジメな子」を再生産する保育は避けたいものです。こんな大切な日本の保育の方向性について、指針はまったく語らない、語れないのです。
保育界では【この保育を通してどんな力が子どもについたのか】という突っ込みがあります。この設問自体、あり得ないのですがよくなされます。子どもって一体誰でしょう。
子どもは十人十色で1つの活動や経験の受け止め方も違います。ここに日本社会の「子ども集団を個性の集合体と見ないで1つの塊と捉える集団第一主義」が見え隠れします。

しかし、保育者集団は、時により事によって、個々がどんなふうに成長したのか保育者どうしで認めることができます。この互いに認め合う行為が、より良い保育と運営の原動力になります。なのに、園の実態を知らない役人や御用学者は『保育指針』を盾に各園の園長や保育者に紋切型で物申します。実にやり切れないです。保育士たちが最前線であり管理職は第一線です。学者は後方支援部隊で諸制度の作り手である役人は後方司令室、という保育実践の構造を再構築しないと、最前線で働く保育士の意欲は衰退するでしょう。

第一線に居る管理職にも諸々の葛藤があります。先日、関西のマナー研修で髪の色の問題(issue)がでました。当然「何色でもOK。緑や紫もグッド」です。管理職は「保護者からクレームが出る」と反論します。「聞き流せば良い」と私は返します。ピアスをしたり爪を長く伸ばしたりするのは安全上の理由で禁止します。かつてNHKは「長髪であるから」という理由でタイガース(沢田研二)やスパイダース(堺正章)を出演させませんでした。「マジメそう」を求め合うのが日本文化です。保育士に「校則まがいの規範を求めるのは良い保育環境と言えない」と指針は率先して語るべきです。そこで議論が起こり、賛否が生れ、コンセンサスを求めて語り合う、それが指針が果たす本来の役目(思考)でしょう。
2月22日に発表された「保育指針解説」は374ページに及びます。その最後の8行です。

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
施設長など職員の人事・配置を担当する立場の者は、研修に参加した
職員がそこで得た内容等を日々の保育に有効に生かすことができるよ
う、専門分野のリーダーに任命するなど、資質や能力、適性、経験等に
374             応じた人材配置を行うことが重要である。保育士等のキャリア形成の過
程で、研修等による専門性の向上と、それに伴う職位・職責の向上とが
併せて図られることは、保育士等が自らのキャリアパスについて見通し
をもって働き続ける上でも重要であり、ひいては保育所全体の保育実践
の質の向上にもつながるものである。』   ?????

厚労省のHP  保育所保育指針解説参照

幼稚園と違って、朝の7時から夜の7時(8時の園もあります)まで延々と保育時間が流れます。流れる時間のなかで子どもたちはそれぞれ活動します。それを保障しながら、どこで時間の切れ目を作って集まって、どのように効率的に周知作業をするのか、後方司令室(厚労省)にお尋ねしたいものです。すべては、私たち(みなさん)の無関心とひとごと感覚で指令を受け止めてきたことに由来しているのでしょう、が………。

2018年2月13日 火曜日

〔ユナタンDX-7〕 №38
~ ごっこ遊び 劇のお稽古 想像性の行き先 ~

平成30年2月13日  片山喜章(理事長)

発表会のお稽古を眺めていると、とても不思議に思うことがあります。どうして2歳児の子どもでも舞台にあがると普段の自分ではない劇の役柄を演じることができるのでしょう。4歳児5歳児になると厳しいお稽古でも、なぜか、投げ出さないで続けます。お稽古中に笑いも生まれます。
普段、保育室で“ごっこ遊び”や“身体表現”をするときは、嬉しそうにその役になりきる子どもたちですが、それと同じ気持ちでしょうか。ぜんぜん違うと思います。一体全体、この子たちの心の中では何が起こっているのでしょう? “人間らしさ”“子どもらしさ”という保育の根幹に関わるテーマだと思います。その辺りの解釈について、今回、私なりに考えてみました。

“ままごと”なら、昔も今も子どもの“ごっこ遊び”の定番としてどこでも見られます。新生児から人は他者の振る舞いを見て、自分の中に取り込んで、マネをする。これが学習の基本だと思われます。“ままごと”は、お家の生活を思い描き(想像)ながら、それをベースに自分なりに物語を創って表現します。遊びながら頭脳をフル回転させて、話の内容をより面白い物に創りあげようとします。思い描いたことを演じて遊ぶ(創造する)ことでさらに想像力が膨らみます。
私たちも、自分の思いや考えを相手に伝えようと対話するとき、集中して熱く語り合っていると自分でも気づかなかった新たな考え方が場の空気から引き出されます。それと同じように“ごっこ遊び”では「想像」(内面活動)と「創造」(表現活動)が相乗的に作用していると感じます。

「お母さんはお出かけしますから、お利口さんにしておくんですよ」と気取ってみたり「お散らかししてはダメでしょ!」という言葉遣いに、その子の母親の口癖が乗り移ります。真剣なやり取りをすればするほど、そばで聞いている私たちは苦笑してしまいます。想像したことを言葉や身振りで表現し合うことこそ、幼児期に最もふさわしい集団教育の姿(効果)であると考えます。

35年くらい昔、私が保父さん(保育士)時代には“イヌごっこ”なるものが流行っていました。当時の私はイヌ役になり、子どもたちから可愛がられて疲れを癒していました。子どもたちも先生(私)を可愛がって悦に浸っていました。4年ほど前、その“イヌごっこ”を発見しました。1人がイヌ役で首にひもをかけられて四つん這いで進み、もう1人の子がイヌを引いていきます。最近、縄は危険だと考えて縄跳び以外は一切、自由に使わせない園が増えています(日本的安全の課題)。
その“イヌごっこ”は、ペットのように無条件に可愛がられる役と可愛がる役=可愛がられたい願望と可愛がりたい欲求の双方が1本の縄で繋がります。微笑ましく感じるところですが、なぜ、子どもたちは“イヌごっこ”をしたがるのか、そこも興味深いところです。

人間社会は競争と協力(言い方を変えると、個の利益と集団の利益の葛藤)をくりかえして発展してきました(発展と称してよいかは疑問です)。森林伐採や油田開発などの自然破壊によって、人は社会を変え、生活を一変させました。その変遷の過程で大規模な殺戮も行なわれてきました。
ある意味、たいした理由もなく束になって友達に陰湿な振る舞いをするイジメ問題も同根のように思います。およそ理性や知性では理解できないのが現実です。これも“人間らしさ”なのかもしれません。もしかして「イジメを受けてもくじけない」「イジメには加担しない」ための備えとして優しくしたり、されたりする遊び(経験)を重ねているのかもしれません。このような遊びによって人間社会が持つ残忍さに打ち克つ耐性をつけているようにも感じます。⇒もしそうなら「生きる力」を育むには、我慢の経験ではなくて想像力を駆使した面白い遊び体験が重要になります。

「そこじゃなくて、舞台のこの線の上で!」と劇のお稽古中、担任の先生から檄が飛ぶことがあります。日本の至る所でみられる光景です。普段“めだかの学校”の先生もお稽古が佳境に入ると“すずめの学校”の先生に変身してしまいます。日頃、ゴンタな子もお稽古中は思いのほか従順になります。良し悪しは別にして、2歳児、3歳児でも、なぜ、そんなふうに我慢できるのか、ほんとうに不思議です。そこが“ごっこ遊び”と大きく違うところです。先生が怖いから頑張るとか、先生に義理立てして期待に応えようとしているとも思えない理解困難なお稽古風景です。

たぶん、園全体から湧き出る“場の力”だと思います。保育者集団の強い願いがまとまって舞台の上に“形態形成場”を生み、億千万の“気合いの素粒子”が舞台の上の登場人物たちの頭や胸を突き抜けているのだと、ホンキの本気でそう考えています。そんなに遠くない時期、心理学と量子物理学が融合して(エネルギーとしての)「意識の謎」の解明に着手すると期待しています。

子どもは空想力が豊富で変身願望が強い。故に大人の横暴や困苦に耐えられると考えていました。プリキュアとか月光仮面に変身したいという願望は成長欲求の現れですから、多少の困難は乗り越えます。しかし、劇のお稽古は、そんな単純なものではないです。その役柄を演じたいという憧れと、嫌でも演じなければならない使命感が混在しているようにも見て取れます。日常生活ではまずありえない異色の葛藤を味わっています。わくわく、もやもや、ふつふつ、はらはらの体感です。

私の経験からいえば、子どものアイデアや発想を活かそうと努めるほど、見ていただく劇としては、内容も展開もだらだらしてメリハリのないものになる可能性があります。しかし当日は、はつらつとして、親に手を振ったり、アクシデントやトラブルを笑いとばしたり、少々間違えてもお構いなしに会場を笑いに誘い込む雰囲気になります。
逆に、最初から枠にはめてピシッパシッと練習して仕上げると確かに内容も展開もしまります。しかし当日は、ピリッとうまくいくこともありますが、一旦、アクシデントやトラブル等で崩れると、もうどうにも、と・ま・ら・な・い、そんな時がありました。

法人各園では、子どもとともに作り上げる劇づくりをめざして格闘?していました。それは普段の“ごっこ遊び”と舞台の上の格別なお稽古の隔たりを埋めるチャレンジでもあります。園の保育者集団が総力(創意と総意)をあげて、1つ1つの出し物に向き合えるかどうかがポイントです。保育者1人ひとりが「自分が主役」であることを自覚して実践する協同劇でもあるのです。
みなさんの園の劇は、果たしてどんな内容、どんな雰囲気になる(だった)のでしょう。

2018年1月16日 火曜日

ユナタンDX-6〕 №37

保育の中の安全・安心…

平成30年1月16日 片山喜章(理事長)

 新年早々の事でした。玄関の扉を開けると「発表会」に備えて舞台が出されていました。
毎年の光景です。しかしよく見ると舞台の端から端まで細いロープが張られてあり、所々に「入らないでね」のポップがぶら下がっていました。まあまあよくある注意喚起の目印です。

フロアと舞台の段差は40cm。キケンと言えば危険ですし、園生活の環境の一部だから禁止するほどではないと言われればそう思います。しかし毎夕、お迎えの保護者同士がフロアで立ち話をされているその周囲を子どもたちは、はしゃぎまわり舞台に上がっては降り、また上がる、その時間、そんな光景が頻繁に見られます。たまに転んで痛い目に遭う子もいるようです。

そんな事情があって、園として夕方から翌朝にかけて「立入禁止」の措置を講じたとのことでした。当然でしょうね。お迎えの時「早く帰ろう」と促しても言う事を聞かない子もいますから舞台に上がれないようにロープを張ってもらう方が助かると思う保護者の方がいるかもしれません。けれども、久々に園の玄関の扉を開けたとたん飛び込んできたその光景に強い違和感を抱いてしまいました。日中、舞台はそのままで劇や合奏のお稽古をしたりサーキットの時間は昇り降りしたり、昼食時はこの舞台のうえでもランチをします。なのに、なぜっ。

すごく気になったのですぐに管理職やそこにいたセンセイたちに理由を尋ねました。
「このじいさん、新年早々、ナニ、ゴテとーねん」と言いたげな真冬の視線を感じながら、安全対策というよりむしろ保育の話をしました。「“立入り禁止”にするのはダメでしょ」と、トップダウンする話でもないので、お昼の時間も、職員室で語り合いました。保育者が少なくなる夕方と朝の時間帯に限ってのことですから理解できます。日本全国、津々浦々、同じように考えて、同じような対策を講じる園が圧倒的多数であることも承知しています。

毎年この時期、よく慣れ親しんでいる舞台ですが、危険性をより確実に除くために今年からロープで遮ることを思いつくなら、来年は、壁際に連なる三段重ねの椅子の周りにも、さらに隅っこに立て掛けているテーブルにも、上ると危ないから囲いを作ったほうがよいと考えて、実行する気がします。その無自覚な思考の行き先には、危なそうなモノは何でも無くしてしまうことで安心する現代日本の社会観が見え隠れしていると言えます。日本中、何か事が在れば、すぐに取り除くことを検討し実施する判断に至っています。その風潮こそ閉塞感の元凶です。誰が、何が、息苦しい世の中にさせるのでしょう。みなさんはどのように考えますか。
私たちは、年々、無自覚に“子どもの安全”というよりも“自分自身の安全=保身”の側に身を置き、判断し行動するようになりました。それを是とする世論も強くなりました。
“安全”“安心”が口癖になれば社会全体は委縮します。子どもがケガをした経緯や原因、ケガの程度そしてその子が成長するうえで経験する必要性や学習した中身を吟味し洞察する営みは軽視され、即、管理責任、謝罪、賠償と誰もが考えるようになってしまいました。

一昨年、お餅つき大会で重篤ではない食中毒が発生したとき(そんなことはあることです)、「餅つきはOKだけど子どもが食べるのは市販のお餅」とある自治体の保育課長は声高らかに通達しました。従順な保育関係者は返す言葉もなく市販の餅を買いました…。
これが日本社会の現状です(欧州は違います!)。しかし、そのような考え方の延長線上に欧州の人たちが言う「アブナイ物を排除する世界一危ない日本の公園」があります。公園からシーソーさえもどんどんなくなってきました。リスク回避という名の下に存在そのものをなくしてしまいます。「リスクを減らすために創意で改良しよう」と発言しても声は届きません。

このような事象は世の中が進歩したからなのか退行なのか、とにかく窮屈になってきたことだけは確かです。ほんとうに子どもの将来を見据えて大人が果たすべきことは何でしょう。
危なそうなものは何でも取り除こうとする短絡思考を抜け出して子どもの成長にとって必要な学習経験であるかないか、そこを考えてほしいものです。危なそうな物が持つ魅力と扱い方を学習する機会を奪わないことです。ギャンブル然り、ゴルフ然り、ハザードのない人生は面白くないという生来の“人間らしさ”や処世観に立ち還りたいです。

日常生活で、1番危険なものといえば、自動車だと思います。死者の数は私の子ども時代に比べて半数以下になりましたが、それでも年間4000人台です。事故の件数や負傷者の数は何万という数字です。しかし誰も自動車を取り除こうとは言わないし考えてもみません。自動車事故に遭うリスクはとても大きいです。リスク回避のためにシートベルト、エアバックが開発され、自動運転の技術もリスク減らしの賜物です。アクシデントに出逢っても大事に至らないように工夫する日々の暮らしの生活で、より良い保育の中身についても考えたいですね。

唐突ですが「安全/安心」は人権尊重や多様性の課題と隣接しているとイメージしています。欧州の園庭では砂場ならぬ石場を設けて危険回避力を育もうとします。子どもの人権を尊重するから自分自身で危険を回避してほしいと願って経験させます。同時に欧州各地にはどの園にも移民や難民の子がたくさんいます。一見、危なそうなものを取り除こうとする日本人の知性は、見知らぬ人は排除しようとする思考につながるのではないかと案じています。

 

2017年12月26日 火曜日

〔ユナタンDX-5〕 №36
「クリスマス」をテーマにした保育のエピソードから

平成29年12月26日  片山喜章(理事長)

毎年、この時期になると各園各様に「クリスマス」をテーマに保育の幅が広がります。テレビを見ても、街中に出ても、家庭においても「クリスマス‥‥」「クリスマス‥‥」です。
お正月もそうですが、世の中で話題になっている事(パンダの子どもシャンシャンなど)や家庭で盛り上がっている事(家族で温泉に行った…ハワイに行くんだ、等)と園の保育で取り上げたテーマが重なった時、子どもたちは親近感を抱いて格別の意欲が湧きあがるものです。

「クリスマス」をコアワードにして連想ゲームのように思いついたことを「ホワイトボード」に書き出して、イメージを蜘蛛の巣状に広げて、話し合います。「サンタさん」⇒「ソリ」⇒「トナカイ」⇒「鈴」。「プレゼント」⇒「煙突」⇒「靴下」。「ツリー」⇒「星」⇒「飾り物」。「もみの木」⇒「雪」や「電気」など…、キラキラと子どもたちの思考が点滅します。

3歳児クラスでの子どもの会話です。『サンタさんはどこから入ってくるのかな?』『エントツじゃない?』『でもおうちにエントツないよ』『じゃあ、サンタは来ないの?』『エントツなかったら家の窓から入ってくるって!』『鍵、開けといてあげた方がいいのかな・・・』『いや、鍵がかかっても、魔法の力でプレゼントをおうちの中に届けられるんじゃない?』
そこから、『プレゼントって、靴下の中に入れてくれるねんで』『えッ、靴下くさいやん!』『じゃあ良い匂いのきれいな靴下、用意しとこうよ』『でも、私の靴下小さいけどプレゼント入るかな?』『大きい靴下を用意しようかな』。ウキウキ気分に想像力がもくもく昇ります。

4歳児クラスでは「メリークリスマスのメリーって何?」「メリーさんの羊のこと?」「ちがう、ソリ引っ張るの、トナカイやで」「トナカイも羊の仲間?」「どうかな……」。
「クリスマスってどういう意味?」「キリストの誕生日」「キリストって?」「イエスさまのこと」「イエスって“はいそうです”ってこと…?」「ちがうよ」「ちがうって“ノー”って言うね…」この時、保育者はきちんと教えるべきか、どうか迷います。が、私なら子どもたちが話疲れるまでニコニコしています。なぜなら、ある子が真剣に尋ねてきたなら応えますが、とにかくワクワク気分の現れですから、そこに講釈を垂れると水を差す気がするからです。

5歳児クラスでは、話し込んでいるうちに論点が絞られて、最終的に「クラスのみんなで園のクリスマスツリーを作りたい」という事にまとまりました。そして「どのように作るのか」と話題は発展し、そこから先は、ウキウキ、ワクワクを超えた“気合い”に変わったのでした。
その園では異年齢グループの製作活動でも「クリスマス」がテーマでした。あるグループは作りたい物で分かれました。「ツリー飾り」「クリススマ会に着る物づくり」などです。
何となく「ツリー飾り」の場所に行った3歳児のジョン。いざ開始しても黙ったまま周囲を見ているだけでした。ほんとうは特に何かをしたいということではなかったのだと思います。
隣で5歳児のポールとジョージが「こんなんどう?」「星の形になったし」と互いの作品を見せ合っていました。そのうちに「やりたい」という気持ちに火が灯ったのか、ジョンも見様見真似で作り始めました。ポールが「イイの作ってるやん」と声をかけました。年下の子に真似られることは光栄で嬉しいのかも知れません。ジョンは特に反応しませんでしたが、ぎこちなさを抱えながら必死にハサミを使って星を作っていました。ハサミを扱うスキルも上がっていきます。その表情は満足気に見えました。ポールやジョージの姿を見て、ジョンの心に“自分もやりたい”という気持ちが湧き出たのだと思います。⇒ 学習≒教育場面です。

自分が“やりたい”気持ちになり、その“やりたい気持ちを叶える”ためにハサミを使い、結果“スキル”があがる。これが学習=教育の原点であるべきだと思います。当事者の“やりたい”“やってみたい”“できるようになりたい”、その気持ちが膨らまないままハサミを扱うスキルだけをアップさせようとしても、それは学習とは言い難いのです。私たちは、小中学校で習った知識も“知りたい欲求”に関わらず「知っておくように」と教えられてきました。
“知りたい”気持ちにさせる工夫や仕掛けを施す事が学習と教育の中心になると思います。

5歳児の園のツリーづくり。ホームセンターでモミノキを買って、ダンボールを車やお家の形に切って、色を付けるジョージに「それ、ナイスアイディア」とポールが声をかけ、既成の飾り物以外に、まつぼっくり、どんぐり、新聞紙をどんどん使って、まる3日かけて、クラスのツリーを仕上げました。では彼らは何を学習したのでしょう。クラスみんなで1つのツリーを作り上げた経験が良い学習でしょうか? それぞれがハサミを器用に駆使し、絵具を使い、筆を巧みに扱うスキルを発揮したことが学習でしょうか? どちらもイエスですが‥‥。

これからの学習活動には「社会とのつながり」の視点が必要です。個々のアイデアやスキルを持ち寄って自分たちのツリーを製作した。そして、そのツリーが園のツリーとして玄関に設置され、他のクラスの仲間や保護者の方々、お客さんたちにとっても、この園のツリーとして(社会的に)存在したことが学習成果です。農業生産者は社会(消費者)を意識して品種改良に挑み、新たな農業技術を学習します。アスリートもアーティストも自己表現がそれを享受する周囲(社会)との関係を意識して学習します。その子の「やりたい」からスタートするのが学習の基本で、それを促し支える事が教育である、と理解していただきたいです。