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片山喜章のページ ~思い・願い・提言~
2018年7月25日 水曜日

【ユナタン8-48】
~ してあげる or させてあげる ~

2018年7月25日 片山喜章

「日本社会は乳幼児が元々持っている能力について理解していない。親でさえ我が子をコドモ扱いしている」とこれまで吠えてきました。なぜなら、子どもの人としての知的好奇心や探求心は脳内で活発にはたらいていても、実際、現れ出る姿は大人社会において「汚い、危ない、ふざけ」と映るからです。保育士も同じようにその子なりに試している姿を“危なそうだから”=禁止するケースが多数です。
リスク回避とは、リスクを奪うことではなくリスクとうまく対峙させることですがその発想には至らない。これこそ教育・保育に限らず日本のリスクです。

今月20日、ニュージランド視察に行った法人の人たちから報告がありました。どの園も園庭にたくさんの石ころが所定の場所に設定されている。しかし石ころは大小様々だけどすべて丸みのあるものばかり。ドイツ(私が見たのはミュンヘン)や北欧ではふつうの園庭の光景です。国内において2歳児がハサミを使う姿を見て「危険、時期尚早」と感じる園と「この時期に経験し3歳児になれば自分のペースでハサミを駆使して探求心を形にする」と評価する園に分かれます。保育というよりも安全に対する基本的な捉え方の差であり根本的な人生観のテーマです。

もう1つ、乳児の知性や関係性の育ちにおいて未発見のことがたくさんあります。『状況』に接して何とかしようと考える思考の中身についてです。1、2歳児12人をワンルームの部屋で保育する小規模保育園「なのは乳児園」での物語です。
「あら~、ヨシ君また鼻出てる~」と担任が近づくと、そこに2歳児のルミもついてきました。手にはティッシュペーパーの箱を持っています。担任が“ありがとう”というや否やルミはティッシュを取り出してヨシ君の鼻を拭いてあげたのです。ヨシ君は嬉しそうに“されるがまま”でした。担任は「ありがとうルミちゃん」とお礼を言いました。その後、しばらくしてトイレから声が聞こえてきます。
「できな~い」ナリエの声です。担任は声の方に向かいます。その後をルミもまたついていきました。目に入ったのはナリエのパンツとズボンです。裏と表がぐっちゃぐちゃにねじれて、見ているだけでイライラッとなる状態でした。
「ナリエちゃん、なおしたろか」ルミが声をかけます。ルミは座り込んでナリエのパンツを手にしたその時、「やめて、じぶんでするから!」とナリエは声を荒げたのです“助けを求めたの、アンタでしょ?!…”ルミの表情は曇ります。
そこで担任は「ナリエちゃん自分で履くんだって、ルミちゃん、ありがとね」とねぎらいの言葉をかけました。ルミはがっかりした表情でその場を去りました。
ルミがその場から立ち去ろうした瞬間、ナリエは「できなあ~い」と叫びます。その声に反応してルミは即リターン。「ルミがやったる」とナリエに迫りました。しかしまたまたナリエは「じぶんでする~!」と言い返します。2人は、裏と表がひっくりかえった花柄のパンツの取り合いをはじめました。
「手伝ってあげたいルミ」「日頃からライバル意識をもっているルミには手伝ってほしくないナリエ」「自分でしたい」「が、できない」単なる2人の2歳児の姿ではなくて2つの尊厳をもった人格のぶつかりあいと見ていただきたいものです。

この場の殺気を少し離れたところで感じたヨシ君がやってきました。「ナリエちゃん、パンツ履けなくて困っているからルミちゃんが手伝ってあげるって言ったんだけど…ナリエちゃん嫌みたいなの。どうしよう…」と担任はヨシ君に窮状を説明しました。すると「ヨシがやったるわ」と、2人が取り合うパンツではなくて、その向こう側にあるズボンを拾いました。「はあ~?」2人は呆然。ヨシ君は使命感満載。ズボンの裏と表を上手にひっくり返して“どうだ”と言わんばかりに得意気になるヨシ君の姿にぐっちゃぐちゃの気持ちが戻ったのか2人とも笑い始めました。
「じゃぁ、パンツはどうする?」と担任が尋ねるとルミは「ルミがやったる」と言うとナリエは気持ちを切り換えて“上からトーン”で「じゃぁ、ルミちゃん」と命じました。ルミは、すこし手間取りながら、しかし笑みを絶やすことなくナリエのパンツを履けるように整えました。

パンツとズボンはほどよくナリエの前に並べられ、ナリエさんお着替え~。ルミもヨシ君も絵に描いたように「がんばれ~」と応援します。2人の応援を受けながらナリエは「う・う・ちょっと上がらないな」とつぶやく。汗で上がりにくい状態になっていました。どうする?と担任が心配する間もなく、ルミが前を、ヨシ君が後ろにまわって持ち上げました。お神輿を担ぐような、3人相撲をしているような、3人が1つの事を成そうとする賢明な姿を微笑ましく見るのは失礼な気がします。
最後は、ズボンの裾を見つめながら「(足)出てくるかな?」と慎重に事をすすめて「やった~!!」と歓喜の瞬間が訪れたのでした。2歳児どうしの姿です。広くない部屋ならではの関係性の育ちです。この3人3様の複雑な心模様から私たち大人こそ社会のあり方や世界のあり方を考え」直さなきゃ、と感じた事例でした。
【資料提供:なのは乳児園(小規模):藤本裕美】 ※ 8月はお休みします。

2018年7月11日 水曜日

【ユナタン7-47】
  ~ プールの季節、コーナーでも遊泳 ~ 

2018年7月11日  片山喜章

もみの木台保育園では、2歳児クラス以上の子供達は2階のテラスにある大きなプールに入ります。それ以外の時間は基本2歳児~5歳児までのコーナー遊びです。普段、2歳児クラスの子供達は1階のお部屋にいますが、プールの後の時間は幼児クラスと一緒に幼児クラスのコーナーで遊びます。比較的ゆったりした幼児クラスの保育室を活かしたこの時期ならではの保育の特色です。

7月4日、プール活動が始まって2日目のことです。2歳児クラスの洋くん(仮名)は、早めにプールから上がって着替えをし、一番乗りで幼児のコーナー遊びにやってきました(というのも洋くんは、おしゃべりは得意ですが、大きなプールが苦手です。さっさと先に上がって早く室内であそびたかった、そんな感じでした)。着替え終えて出てきた所には、椅子でつくった仕切りがありました。その中で5歳児クラスの子どもたちがままごとをしていました。一つ下の年中児クラスの子が仕切りの中に入ろうとすると「ここは私たちの所だから入らないで!」と言い放っていた一郎くんも2歳児クラスの洋くんが入ると、ムッとした表情になりましたが大きく息継ぎをしてから「ま、しかたないか」と、作り笑顔を浮かべながら許容しました。洋くんは、ままごとコーナーにある物を物色し赤ちゃんのミルクの玩具を見つけると赤ちゃんの人形も棚から取り出し机の上に寝かせてミルクを飲ませます。しかし、洋くんなりに空気を感じたのか、その赤ちゃんを後からやってきた2歳児クラスの他の子に譲り、次のコーナーに移動しました。

次に向かったのはラキューコーナーです。そこには年長児クラスの子ども達がラキューで作ったカッコいい車やらお家等が飾ってありました。洋くんはニコッとしその中の車の一つを持ち上げて遊ぼうとします。そこへ一郎くんがやって来て今度は「ダメだよ、勝手に触っちゃ」と一喝。ここは許容しない一郎。ままごとという形のない遊びに侵入することは許せても、ラキューで作った作品を触られることは許さない年長児。洋くんは一瞬しょぼんとしつつも、何かを悟った様子で気持ちを切り替えてラキューを組み立てるコーナーに行きました。そこでラキューを手にして作品づくりにトライ。しかし2歳児の洋くんには無理でした。

そしてまた次の場所へ…
積み木コーナーの棚にはフィギアの人形やら、ブロックがあり、一通りなにがあるか全部の箱の中を覗いて確認しました。そして、見つけました!
普段、自分のクラスでも遊んでいる『汽車の玩具』です。その箱を引きずり出して、普段、自分がお気に入りの形の汽車を見つけて遊び始めました。“でもこれなら自分のクラスのお部屋にあるし‥…” しばらく集中して遊びながらも興味は他の所に移っています。(もっと何か楽しいことないかな)そんな様子でした。

そして次に向かったのは制作コーナーです。この日は七夕にちなんで、七夕の製作をしていました。30㎝程の長さのスズランテープに星形のシールや、キラキラで色とりどりのビーズをボンドで貼って天の川のような物を作っていました。洋くんがまず興味を示したのは星形のシール。自分でも貼ってみます。そして次に興味を持ったのが色とりどりのキラキラビーズ。しかしこれはシールの様にそのまま貼り付けることが出来ずなかなか思うようにいきません。ここで先生がキラキラビーズにボンドを付ける仕草をして見せました。洋くんは指でボンドをたっぷり取ります。そして自分の手の上にボンドをつけて遊び始めました。
ボンドの感触に夢中の洋くん。「飾りをつける事への興味は消えちゃったのかな?」と先生が、洋くんが手に付けたボンドの上にキラキラビーズの飾りをつけてみました。あ、そうだった!というようにキラキラビーズの飾りに再び興味を持ったSくんは手についたキラキラビーズを今度はスズランテープに貼っていって、飾りをつくっていました。

以上、プール活動がはじまて2日目の様子でした。洋くんは普段とは違う広くて新しい環境に興味津々でした。驚きの連続だったことがわかります。しかし同じ2歳児クラスでも15名の姿は実に様々です。広いことが不安になる子。担任となら遊べる子。1つのコーナーに入り込んで3歳児クラスの子と遊ぶ子。それぞれですが、これから夏が終わるまでこのような暮らし方を経験することは、有意義だといえると思います。
プール活動の時期は水に親しみながら水中で自在に動く経験を重ねます。そのためにできるだけ無駄なく効率的に入水できるように努めます。そのためのコーナー保育が思わぬ副産物をもたらした例です。各園において、このように普段の保育とはちがったこの時期ならではの工夫された生活が展開され、成果が得られるだろうと期待します。 【話題提供:もみの木台保育園 太田亜希・森田彩未】
※ 次回、7月25日は、なのは乳児園(神戸市灘区)です。

2018年6月27日 水曜日

【ユナタン6-46】
  ~ 流されるような風景の意味を探る ~ 

2018年6月27日  片山喜章

子どものすべての行動には、それなりの意味があり、それを子ども(の育ち)の側に立って理解し寄り添う事は保育の重要なテーマです。しかし実際、日々の保育の流れる時間の中で、いちいち立ち止まって、そんな心持ちで実践するのは、並大抵なことではありません。一方で「ダメな事はダメ」というごもっともな考え方があり、子どもの行動の意味を理解しようとしないまま、禁止あるいは叱責する場面もみられます。ご家庭においても、特に乳児の場合、ほんとうに科学者のように探求心から生じた好ましくないような行動に対して、それに替わる代替物や代替活動を提供されないで「それは大事なものでしょ」「それは危険でしょ」のひとことで「ダメ」といわれ叱責され、貴重な実験の経験を奪われたまま成長していきます。
今回のエピソードは、特に“何事もない”、実に平凡な風景です。保育の中では生れて消えて保育者からも流される場面かもしれません。しかしそこにも子どもの精神活動は存在します。そこから子どもを理解すると、もしかすると新しい見地で子どもの姿が見えてくるかもしれません。

『4月入園の1歳児のランちゃん(1歳5ヶ月)は、いつも0歳児のミキちゃん(11ヶ月)を見つけると、傍にスーッと座ります。顔を覗き込んだり、頭をなでたりしながらだんだん体の距離を縮めていきます。そして、最大限に距離が縮まるとギュッと抱きつくのです。ランちゃんのミキちゃんに対する愛情表現はこんな形になることが多いのです。まだ加減が分からないので、撫でているうちに頭を叩き始めることもありますが、保育者に「優しくなでなでしてあげようね。」と言われると叩くのを止めて、そっと撫で撫でしています。
ある日、ランちゃんがお手玉をたくさん入れたおままごとのボウルを自分の前に置いてかき混ぜています。お料理に見たてて遊んでいるようです。そこへ、スーちゃん(11ヶ月)が近づいてきました。気配を感じたランちゃんは、咄嗟にボウルを両腕で抱えこみました。ランちゃんの側にすわったスーちゃん。案の定、スーちゃんの手がランちゃんのボウルに触れました。すると、ランちゃんはスーちゃんの手にボウルが届かないよう体を45度くらいひねり、自分の体と腕で守ります。それでもスーちゃんの手は、ぬ~と横から伸びてきます。お手玉を取ろうとするスーちゃん。手が伸びてくるたびにランちゃんは体の角度を変えていきます。

しばらくすると、スーちゃんはランちゃんのボウルを追うことを諦めました。そして、近くに置いてあったブロックを手に取りひとりで遊び始めたのです。
ランちゃんはスーちゃんの様子を見て、『もうこっちには来ないな』とほっとしたようにスーちゃんの方に体を向き直しました。次の瞬間ランちゃんは、お手玉を一つ手に取りました。そのお手玉をスーちゃんに「どうぞ」と差し出したのです。スーちゃんは笑顔で受け取ってくれました。すぐに、スーちゃんはボウルやお手玉、遊んでいたすべての道具をその場に置いたまま去っていきました。』
この風景に対して担任は《ランちゃんは、自分よりも少し小さいお友達に興味があり、特にミキちゃんに対してもっとも親近感があるように見えていた。ミキちゃんより月齢の低い子にはあまり興味を示さない。この日のスーちゃんに対しての姿は、おそらくスーちゃんと月齢が同じで発達も近いこともあり、改めて彼女の存在を意識したのではないか。どうしたら自分の物を守れるかというやりとりをした後、お手玉を手渡そうとした気持ちとは、どんなものだったのだろうか?》
と、振り返りを残しています。自分が遊んでいた物は誰にも渡したくない。それが45度、体を背けるという行動になります。しかしその後、遊んでいたボウルではなくて代替物としてお手玉を手渡し、スーちゃんが笑顔になるとそれに引き寄せられたのか、ボウルまで残してあげて?別の遊びをしようとしました。

「ボウルで遊ぶ事に飽きたから」でしょうか。「仕方ない、譲ってあげよう」と考えたのでしょうか。もしも相手がふだん親しみの深いミキちゃんだったら、どうでしょう。あっさり貸してあげたでしょうか、否、むしろ相手が近しいので自我をぶつけて譲らなかったかもしれません。否否、2人とも自分より月齢が低いと認識できているので、誰にでも譲ってあげようという気持ちになるのでしょうか。
ランちゃんの頭のなかでは私たちの想像が及ばないような知的なワークがなされていたのは間違いないことです。それは科学者のような物に対する探求心とは異なる心の知能です。もしも、担任が「ランちゃん、譲ってあげて」とお願いしたら、ランちゃんもスーちゃんも担任との関係で心が動きます。結果、譲ってあげた時、大人はただ「善い行いだね」と流します。しかし2人の経験した事や心の育ちの中身は全然違う!と評するのが保育の専門性だと言えます。再生医療は進歩し量子コンピュータを製作するまでに進歩した現代社会ですが、子どもの行動の真意を観測する専門性は未開です。それが保育士の質を下げ、保護者の理解を得づらくしている要因になる!? と懸念しています。【資料提供:関戸真理子(世田谷はっと保育園)】
※ 次回は7月11日 もみの木台保育園(横浜市)です。

2018年6月13日 水曜日

【ユナタン45】
~ おまけの おまけの きしゃぽっぽ(ノンタンシリーズより) ~

2018年6月13日  片山喜章

5月の晴れた日、3歳児クラス黄組は隣接する公園に出かけました。公園にはブランコがあります。4台のブランコは行儀良く並んでいました。そこへ子どもたちがどっと群がります。園にはない遊具なのでトラブルが予想されます。ということは保育として好機が訪れたと解釈できます。サリーは“自分が!乗りたい”という思いを強く現わして友達を次々に跳ねつけます。友達に向けて手を振り上げようとしたその時、先生はその手をつかんで止めました。するとサリーはその手を払いのけて睨みつけます。サリーの目からは涙がこぼれています。憤りやら悔しさやら自戒の念やらが混じりあって胸がいっぱいです。そして、思いのすべてを吐き出すように「バーカ」と言い放って別の場所に駆けだしたのでした。

 5分くらい時間が過ぎて、サリーはまたブランコのところに戻ってきました。
“やっぱりブランコに乗りたい”。でもブランコに乗るには“友達に乱暴に振る舞ってならない”。けれども早々に素直にはなれない。それでも“素直にならないとブランコには乗れない”。“友達は受け入れてくれるかな”“どうしよう”。 
少しの間、ジトっとブランコを漕いでいる友達を眺めていました。サリーなりの葛藤が痛いほど伝わってきます。サリーは意を決したのか、強い調子で「貸~し~て!」と言いました。友達は知らんふりです。ふたたび「貸~し~て」。やはり返事がありません。サリーがベソをかくような表情で立ち尽くしていると隣のブランコの前にいたベティが「キキちゃん、そろそろ替わってもらえる?」とお願いする声が聞こえました。キキは「いいよ~」と返事をし、すぐに交替したのでした。

その様子をじっと見ていたサリーにとっては驚きの光景だったかもしれません。
サリーは思案して…しかし思い切って「ララちゃん、そろそろかわってもらえる?」と言葉にしました。その言い方は穏やかでした。ララはサリーの顔を見つめて一瞬、間をおいて「いいよ」と返しました。で、さっとサリーと替わってあげたのでした。 
なぜでしょう。ある程度、ブランコに乗って満足したからでしょうか。少し飽きたからでしょうか。さっき乱暴だったサリーが今度は殊勝な表情をしているのを見て譲ってあげようと感じとったのでしょうか。いずれにしても先生の介添えが無い状況でしぜんに“交替しよう”という空気と気持ちが生れたのでした。
念願のブランコに乗れた事とララに替わってもらえた事が相まってサリーは嬉々とした表情でブランコを漕ぐことができました。すると隣のブランコから「わあ~」と笑い声がします。キキがベティの背中を押してブランコが大きく揺れたのです。笑い声は連鎖を誘引します。その隣でも待っている子が漕いでいる子の背中を押しました。サリーも「だれか、おして~」と声を張り上げます。何人かの子が近寄ってきました。サリーは背中を押してもらってご機嫌です。しばらくすると端っこのブランコから「こうた~い」の声がしました。交替する行為も連鎖します。わずか15分前に「バーカ」と毒づいていたサリーも交替してあげていました。

「交替する」「順番を守る」などの規範は「お題目」のようにくり返し言ってきかせることで体得できると信じる人は年配に限らず若い世代にも多いです。「型の文化」 「形」を重んじる慣習などの日本の文化をそのまま人間教育にも当てはめようとする教育関係者の思考そのものが誤謬であり教育界の怠慢だと思います。それが結果的に逆効果になっているのが現代です。不祥事続きの国や企業や部活の組織文化の根底にあるのは、真の規範意識の希薄さと事なかれ主義と上意下達の価値観です。“思いやり”を授受し合う体験と関係性が規範意識を育むと考えたいですね。

「ブランコは順番に交替して乗りましょう」という言葉はどんな子でも頭の中で理解できます。時には叱られて頭で理解しても心持ちとして人間性のなかに溶け込まなければ育まれないと思います。この日のサリーの体験はどうだったでしょう。
元々サリーの中で眠っていた規範意識が仲間たちとの物語によって浮かび上がったように思います。乱暴な振る舞いが改まらない子どもの姿は、その時々の気持ちに寄り添えなかった大人たちの振る舞いの賜物でしょう。現代社会に適応できていないのは、成熟が待望されるのは、多数派を占める今の大人たちの人間性です。

その後、公園では1台のブランコに複数の子どもたちが群がっていました。順番を待つ子も増えています。「順番なんやで~。背中押して~、順番なんやで~」といきいきと響いていたのはあのサリーの声でした。先生から教えられた言葉としての「じゅんばん」を叫んでいるのではなくて“順番を守ることでみんなが同じように楽しめるんだ”と体感しそれを全身で表現している、そんな感じ方、受けとめ方ができる大人に育ちたいものです。   【資料提供:いけだすみれこども園:溝上宏子】
※ 次回、6月27日の事例提供は世田谷はっと保育園です。

2018年5月23日 水曜日

【ユナタン4-44】
~ 思いやる気持ちはどこから? ~

2018年5月23日  片山喜章(理事長)

前回配布(5月9日)の【ユナタン3】では、0歳児のミイと1歳児のケイが朝の室内遊びの中で玩具のポットを取り合う場面を紹介しました。自分も相手も共に譲れない葛藤場面で“保育者の包みこみ”によって双方が“葛藤状態”を和らげ、最後に譲ったケイが担任の胸のなかで興奮を鎮めて納得の表情を現わしました。
それを0歳児(満1歳)なりに道徳心を感得したように思いました。子どもどうしがトラブルになった時、自分の気持ちを伝えながら相手の気持ちも理解して双方が解決に向かおうとする空気の醸成、ここが保育の最も難しいところだと思います。

子どもに限らず人はトラブルに出遭うとカッとなって心が荒れます。荒れた気持ちは、それを理解して落ち着かせてくれる誰か(何か)が居なければ回復しません。決まりやルールを言葉で教えられだけでは感得には至らないどころか、教えた人との関係性によっては、善悪をわかっていてもさらなるトラブルを引き起こすこともありえます。現代人の感受性はよりデリケートになり、その傾向は顕著になった。そんな社会観、人間観、子ども観、教育観、保育観を抱いているところです。
今回紹介するのは、今年2月末の1歳児の姿です。どうしてこのような“思いやりのあるような行動”が現れ出たのか、私なりに解釈してみました。

1歳児クラスのお部屋の隅から笑い声が聞こえてきます。ミキ、ユミ、コウジ(いずれも仮名)の3人が“ままごと”をしていました。3人は“しゃもじ”を手にしておしゃべりしながら笑っていました。楽し気な様子に気づいたヒトシ(仮名)は“ままごとコーナー”の“しゃもじ入れ”をのぞきました。自分も仲間に入れてもらいたかったのです。ところが、“しゃもじ入れ”の中は空っぽ。「なぁーい」と声をあげたヒトシは、3人に向かって「かしてー」と訴えます。コウジとユミはそれを聞いて「あかん」と言って走りだしました。「かしてー」とヒトシは2人を追いかけます。2人とも「あかん…、あかん‥」と笑いながらまるで追いかけられることを楽しんでいるようでした。ヒトシは今にも泣きだしそう。その様子を見ていたのは担任と、もう1人、ミキでした。

担任はすぐにヒトシの傍へ行って「ヒトシくん、貸してって上手に言えたね」と声をかけました。ヒトシは再びコウジとユミに向かって「かしてー」と言いました。
「おともだち、まだ遊ぶかなあ。貸してもらえなかったね。残念だね」と担任がヒトシの気持ちに共感するとヒトシは声を荒げて「かしてー」と泣きだしました。
と、その様子を見ていたミキは自分が持っていた“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”の中に入れてからヒトシの傍まで行ってツンツンと肩を突いて「ヒトシくん、あるやん」と言って“しゃもじ入れ”を指さしました。ヒトシは「えっ」と怪訝な表情で“しゃもじ”が入っているのを確かめました。 さて、それから・・・

なぜ、ミキの思いやりの行動が現れ出たのでしょう。担任は「ミキの粋な計らい」と綴っていますが、おそらく日頃の保育スタイルと保育者の基本姿勢が強く影響していると考えられます。どのクラスもグループを基本に過ごしているのです。
1歳児は3人1組の固定のグループで1つのテーブルを使います。ご飯の時も3人が揃うまで待ちます。揃わない時はそれに気が付いた子が誘いに行きますが、担任は自分から声掛けせずに、子どもが気づくような微妙なかかわりを意識します。お茶を飲む際もテーブルの中央に重ね置きされた3つのコップをメンバーの誰かが配ります。誰がするのか決まっていませんが、毎日、誰かがする。それが不思議です。

してあげるorしてもらう。子ども同士がアウンの呼吸で役割を担います。トラブルもありますが毎日くり返されます。ここが鍵です。してあげた子、してくれた子、双方の顔も名前もはっきり理解している日々が“思考力”を育て“思いやり”の源泉になっていると解します。「家族的な」とはまさにこのような状態を差すのかもしれません。3歳、4歳、5歳児では「自分たちの事は自分たちで決めるルール」が日常の柱になっています。1つの事を決めるのに日課のように40分から50分の時間をかけて話し込む姿が見られます。小さな声でゆっくり納得いくまで話し合いを促す保育者の姿を、いつも目にします。観ている私の方がイラッとするくらいです。この園文化が子どもの思考力向上を下支えしていると実感(体感)しています。

それから……ミキは仲間と遊びたかったのです。追いかけ合いを見ていても楽しくないと感じたミキは自分の“しゃもじ”を“しゃもじ入れ”に突っ込んでヒトシに取らせて遊びの続きをしようとしたのでした。思いやる気持ちというより思考力の芽生えです。それは子どもの行為と自身を洞察する担任とグループを強く意識した子どもの世界の方がより確かに育まれるのではないか。子どもの姿を眺めながら、そんな風に思考します。 【資料提供:ななこども園(大阪府:藤井寺市)山本美千代】
※ 次回は6月13日:池田すみれこども園(大阪府寝屋川市)の予定です。

2018年5月9日 水曜日

【ユナタン3-43】
~ 取り合い~譲り~譲られる葛藤 ~

2018年5月9日  片山喜章(理事長)

「道徳」が教科になったことで様々な議論が巻き起こっています。昨今の世界情勢や政治問題、企業の不祥事を見聞きしている子どもたちは、何を感じているでしょう。とりあえず大人の前ではお利口さんに振る舞う術を会得し、ある時期、ある場面で爆発する。そんな副作用を案じます。「道徳」の教科化は子どもの人権や能力に対する社会の過少評価の現れだけでなく、明日の日本や世界に対する私たち自身の漠とした「不安の解消策」の1つではないかとも感じています。

幼い子には“良い”“悪い”の価値観を伝える事が教育であると理解されているようですが、道徳や倫理は(他者の中の)自己の生き方を自問自答するような経験を重ねながら感じ取り学び得るものだと思います。子どもどうしの関係の中に学びの場があり、大人は口出しする前に葛藤する時間をあたえて見守る事が大切だと考えます。今回は、その見守った例です。今年1月の朝の乳児の保育室でのことでした。

朝夕は、0歳児から2歳児まで合同で「コーナー保育」をしています。
0歳児クラスのミイ(仮名:1歳10か月女児)も、2歳児クラスのケイ(仮名:3歳1か月女児)も「おままごとコーナー」で互いに影響を受けているような、いないような、乳児ならではの微妙な関係性、空気感で過ごしていました。(朝からごっこ遊びが大賑わいでスゴイな。乳児も異年齢のコーナーで過ごすのはなかなかいいものだ)と0歳児のミイの担任は微笑ましいその光景を眺めていました。

突然「ぎゃー」「ギャ~」と叫び声が飛んできました。ミイとケイがポットの取り合いをしています。どちらが先に持っていたのかは定かではありませんでした。
ミイは「ぎゃーぎゃ~」と叫びながら手を放さず、ケイはケイで「だめ、これは私が使ってた!」と大声を出して主張し、1つのポットにくっついた2つの手は、拮抗状態を保ったまま、双方譲らず、叫び声だけが響き渡ります。
担任はただ黙って見守りました。ケイはミイの担任の視線を気にしたか、ごく自然に手の力を緩めてしまったのです(さすがお姉さん?)。ポットはケイの手から離れ、ミイはグイっとポットを引き寄せて我が物にし、表情は興奮気味でした。
ポットを譲ってしまった2歳児のケイは「うわ~ん」と激しく泣き始めました。
ケイはとっても悔しそうです。ミイを恨めしそうに睨みながら泣き続けます。睨まれた方のミイは首を横に振りながら後ずさりします。殺気みなぎる光景です。
ポットを手にし、思い通りになったはずなのにミイの表情は固いまま。で、目はじっとケイを見つめています。担任は殺気を取り除くかのように笑顔をこしらえて、ミイに「ケイちゃん、泣いてるね」と話しかけました。けれども年下のミイは年上のケイから目をそらさずにポットを手にしたまま立ち尽くしています…。どうなるのだろう…と担任は黙って様子を見守ることにしました。するとミイはゆっくり、ゆっくり、とケイに近づいていきました。(おや?どうする!)

0歳児のミイは(考え抜いた揚句)、重苦しい表情で「ハイ、どうぞ」とポットを年上のケイに手渡したのです。(やさしい!?)“自分が泣かしてしまった…。ポットを返した方がよさそうだ‥”と年下のミイがそう感じ取って譲ったように見えました。そしてすぐ担任の胸に飛び込んで〔ハイどうぞシタヨ〕と片言で報告します。けれどもその表情はたいそう落ち込んでみえました。そのあと、ミイの姿は担任の膝のうえに在りました。顔を担任の胸に押し付けていました。
10分後、2人に明るさが戻ってコーナーに居ました。ミイもケイもその後、何もなかったように、それぞれがそれぞれに朝の時間を愉快に過ごしていたのでした。

譲ることが尊いとは限りません。まして0歳児、2歳児はどうでしょう。双方とも強い葛藤の末の不本意な選択だったに違いありません。なぜ譲ったのでしょう。
担任はミイの母親的な存在です。ケイは「自分がお姉さんだから・・・」と感じたのでしょうか。ミイも担任が傍に来たので「譲らなきゃ……」と抑制の気持ちをはたらかせたのでしょうか。もしも担任が折り合いを付けてほしいと願い、言葉で「譲り合い」の規範を伝えたらどうなったでしょう。担任も葛藤しながら見守ったことで2人には“自分で深く考える経験≒葛藤”を味わえたのかもしれません。

このケース、担任の目の前で双方がつかみ合いに至ったとしても、その経験は有意義だと思われます。正解はなく複雑な心模様を描いてこそ道徳心の芽生えです。
「信頼できる大人の存在と葛藤し見守る態度」≒「規範の代替」であり、それが「強い葛藤」≒「道徳心」を双方にあたえた良い事例だった、と私は解釈します。
【資料提供:みやざき保育園(川崎市):池田麗佳】
※ 次回5月23(水)は、ななこども園(大阪府)です。

2018年4月25日 水曜日

【ユナタン2-42】

~ 思いを伝え合うことが解決策 ~

2018年4月25日  片山喜章(理事長)

  なかはらこども園(神戸)の去年の3歳児クラスの出来事です。
昨年12月、3歳児のマッチとトシとヨシオの3名(いずれも仮名)がお医者さんごっこをしてよく遊んでいました。よく遊んでいる!ということは同時にトラブルも起こりうる!という事です。そのトラブル体験(ケガのリスクは回避)は保育者の「見守る介入」によって良い育ち=教育になりえます。今回は、その事例です。

予想通りトシとヨシオが注射器を使い始めると、マッチはお気に入りの注射器が欲しくてほしくて何の断りもなく奪い取ってしまったのです。もちろんトシもヨシオも黙ってはいません。マッチから取り返そうと言葉で応酬します。するとマッチは2人を交互に叩き始めました。その途端、トシは声をあげて泣き叫び、ヨシオはその場から逃げ出して先生のところへ駆けていき、マッチの乱暴を訴えたのです。

「どうしたかったの?」と先生は、3人それぞれに尋ねましたが、3人とも“欲しかった”と答えるだけで話はすすみません。ここで先生の介入の仕方が問われます。このケース、「解決の主体」は先生なのか、3人の当事者なのか、そこが保育のポイントです。例えば、先生がマッチに「叩くのはダメでしょ。お口で言ってね」「順番に使おうね」と諭すのが一般的ですが、当事者どうしのトラブルに先生が立ち入って裁くことが果たして教育と言えるでしょうか。みなさんは、どう考えますか。

先生は、特に「こうすべきでしょう」と断定的な提案をせずに「何か嫌なことがあったらお友達を叩かないで、センセイに話しにきてね」「ちゃんと聞くからね」とマッチに話し、トシには「嫌なことがあったら、泣かないでお話してね」ヨシオには「トシが嫌なことをされたら、マッチにお話ししてね」と伝えました。
つまり“トラブルで生じた気持ちは聞いてあげるけど、解決するのは自分たちだから話し合って、解決してね”というメッセージを送りました。事あるたびに同様のメッセージを送り続けました。“3歳児にはムリ”“先生が言って聞かせる事が教育”と考えるのが常識ですが違います! トラブルにならないように大人が言って諭すことよりもトラブル後、当事者の心に生じた気持ちを当事者間で話し合いながら、解決しようとする“意識”や“行為”を促すことが本物の教育だと思います。
それから、3か月を経た今年の3月のことでした。マッチ、トシ、ヨシオの3人はまたお医者さんごっこをして遊んでいました。そしてまたまた注射器をめぐってマッチとトシが取り合いをはじめたのです。ヨシオは仲裁に入りましたが、無理と判断したのか、また、先生に伝えにいきました。まさにデジャブです。

少し迷った先生は、子どもたちの話を逐一聞くことをやめて「3人で話し合うことはできる?」と尋ねました「できるっ」「できる~」と声が返ってきました。
そこで3人の傍で逐一話を聞くのか、それとも距離をおいて子どもだけで話し合うのを見守るのか思案しました。あれから3か月“子どもたちだけでどんな会話をするのか聞いてみたい。どうにもラチがあかないときは自分が関わってみよう”と腹をくくって「自分たちで話し合ってくれるかな」「後でどうなったか教えてちょうだい。先生聞くからね」と伝えました。先生は少し距離をおいて子どもたちの様子を観察します。子どもたちは“見られている”と感じているようでもありました。

3人だけで話をする姿が見られて、先生は嬉しくなりました。時折、話し合う声が漏れ聞こえてきます。「ツカイオワッタラ~…」「サキニ~…」。マッチとトシがデュエットでもしているかのように交互に話しています。その横でうなずくヨシオの姿は、まるで、2人に合わせて伴奏しているようで‥‥…。それから5分が経過しました。

マッチとトシがやってきました。さてさてどんなふうに解決したのでしょう。
マッチ:「先に、トシに貸してあげる。トシが使い終わったら貸してもらう」
トシ :「先にぼくが使うことになった。使い終わったらマッチに貸してあげる」
先生は「ホントに納得した?」と尋ねました。子どもの「答え」に突っ込みを入れることで思考力が一層刺激されるからです。2人とも笑顔で「ウン」と答えます。
その後、トラブルもなくヨシオを交えた3人で注射器を使って遊んでいました。お医者さんごっこだけでなく、大人に口出しされずに話をして合意をつくり出せた経験(結果は二の次)も3人の子どもにとって有意義(教育)だったと思います。
保育の場面だけでなく社会全体の物の決め方として大切にしたい事です。
それにしても、この注射器、中にどんな良薬が注入されていたのでしょう?!
【資料提供:なかはらこども園:牛島夢恵】
※ 今後、ユナタンは毎月、第2、第4水曜日に発行・配布します。
次回(5月9日)は、みやざき保育園(川崎市)から【事例】をいただきます。

2018年4月17日 火曜日

【ユナタン1-41】
~ 新年度早々のエピソード2つ ~

2018年4月17日  片山喜章(理事長)

今年度も「子どもたちの姿」と「その解釈」を綴った【ユナタン】がスタートします。今年度は10施設ある法人のこども園、保育園(他に児童館を運営)が、1園ずつ輪番で話題提供し、そこに私なりの解釈を加えてお届けします。

 今回は、新年度早々私が直接、かかわった2つのエピソードです。

  『導きのスキル(真似っこ。ルールのアレンジ)』
4月2日、新年度初日、A園の4歳児クラスの保育を観察していました。新しい担任はお部屋でサークルタイムをしたあと、子どもたちを1階のランチルームに降ろしました。子どもたちと集団ゲームをするというのです。クラス全体でルールのあるゲームをするのは、絵画や製作等、個々が対象物に向き合って取り組む活動と異なり、ゲームのおもしろさとルールの共通理解が欠かせません。保育者の展開力が弱いと、ぐちゃぐちゃになってしまいます。実際、保育者の強い指示や言葉の力で子ども集団を何とか引っ張っていくこともあり得ます。さて、さて…。

だらだらと、1階のランチルームへ降りてきた子どもたちに担任は、いきなり、『だあるまさんが、こおろんだ』と声高に言い放ってひとりでシェーのポーズをして見せました(おそ松くんのイヤミのポーズ)。突然の姿に子どもたちも思わずシェーのポーズを真似てしまいました。表情は輝いています。その後も担任は『だあるまさんが転んだっ!』と言い放っては次々に様々なポーズを変えてくりかえします。
子どもたちも“次はどんなポーズ?!”“次は?”と担任のリズミカルでコミカルな動きを期待し、そして真似っこをします。ありきたりのネタですが、子どもの“真似したい”“おもしろい”の気持ちを引き出した担任の力だと私は捉えました。

次に担任は後方に用意した2枚のマットに子どもたちを移動させ、自分は反対側の扉の方へ行って子どもに背中を向けて鬼になります。『だあるまさんが~』で子どもたちは鬼に駆け寄って『転んだ!』で振り返ると子どもたちは止まります。
昔からある遊びです。しかし本来?の「だるまさんが転んだ」と違います。誰もアウトになりません。子どもたちは鬼の居る付近まで駆け寄ってそこに並べられたカラーコーンにタッチするとまたマットに戻ってスタートします。
ただ単に鬼の前にあるカラーコーンをタッチすればマットに戻って再出発する。ゴー&ストップの動きを自分のペースで何度もくりかえすだけなのに、4歳児クラス初日の子ども集団がほぼ全員、楽しめます。その年齢の興味を把握したルールにアレンジして展開する事、これは保育者のスキルの大事な面だと私は捉えます。

『コーナー・ゾーンでの保育者の仕事』
コーナー・ゾーンの遊び環境は、現代の保育において欠かせない基本のキです。
4月5日、B園のコーナー・ゾーン活動でのことです。朝10時、3歳児~5歳児の80名くらいの子どもが一斉にコーナーで遊び始めます。その場で作って販売するスイーツ屋さんがおもしろそうだったので私はイートイン用の椅子に腰かけてみました。間もなく黄色のエプロンと花柄の三角巾をまとったKちゃんがお皿にケーキセットを綺麗に盛り付けてやってきました。私は笑顔控えめでイチゲンさん気分で緊張感を漂わせて店員さんの方に目を合わせます。ここは居酒屋ではないのです。

「うちのケーキセットおいしいですよ、どうですか」とすまし顔の店員さんが声をかけてくれました。パティシエらしいです。私がイチゲンさんらしく浮かない表情で「じゃ、お願いします」と返すと、Kちゃんはスプーンとフォークを添えてケーキセットを置いていきました。私は(心得として)誰も見ていなくても、そのケーキをほんとうに美味しそうに口元にもっていき、口だけをもしゃもしゃさせながら、美味!という表情をつくって独りうなずいていました。私の意識はもはや観察者ではありません。するとまたKちゃんが近寄って来て「いかがでした」と尋ねました。私はマジに美味しかったと答えるとKちゃんはふたたび豪華なケーキセットを両手に乗せてきたのです。表情豊かに「これ、うちの新作なんですよっ」と甘めの声で勧めるではありませんか。おすすめされると断れない性分の私は「はっそうですか。では、いただきます」と押され気味の受け応えしかできませんでした。

私の存在に警戒心を抱いていた3歳児のNちゃんは、このやり取りを見ていたようです。まるで珍獣に餌をあげるように恐る恐る私に近づいて自分の作ったケーキをそっとおいてさっと逃げて距離を置きました。無言でケーキを食する私の姿を見て安心したのか、その表情から警戒心が抜けました。大人の真剣な演技の成果です。このお店の品々はベースが本物仕立てで品数が多くトッピングも豊富です。トングやラップも本物です。このような手の込んだ環境づくりは保育の重要な一面です。

2018年3月13日 火曜日

〔ユナタンDX-9〕 №40
~ 卒園式の季節 ~

平成30年3月13日  片山喜章(理事長)

卒園式の季節です。もう終わった園もあります。子どもたちは当たり前のように巣立っていきますが、私たちは、卒園する子どもの名前と顔を一人ひとり思い起こしながら、その子が経験した園生活全体を振り返る機会を得ます。

私にとっては、ひとときの出会いだったかもしれませんが、それでも印象深い物語をたくさんの子どもたちからいただきました。年々、その時々の子どもの気持ちがよくわかるようになってきました。元来、幼児性満載の自分自身の感性が時代の空気にぶつかると、今の社会の不条理や不合理を退治したくなります。それこそが私の保育者としての努めだと思います。子どもたちには、これから先、何があってもくじけないで逞しく成長してほしいと願います。

「昔はよかった、なのに、今の若い人は!」と何かにつけて回顧的に“現在”を愚痴る大人たちが居ます。いつの時代でも、それこそ古代ローマの時代から居ました。それはそれで、愚痴の数だけ大人になった証拠なので批判はしませんが、私は、ある意味「昔の方が断然、良くなかった」と思います。「今の方が個々の市民は深く考えて行動できる自由がある」と感じています。

江戸時代、農家に生まれたら武士にはなれない宿命を背負わされます。職業の自由は極端に制限されていました。長きにわたって世界中、日本中、至る所でテロ(虐殺)もありました。しかし“現在”は概ね平和であるといえます。
その分、自分の意志の力で行動することが要求されます。自由を得ている分、苦悩もくっついてくる。そういう意味ではシンドイと言えるかも知れません。

これから巣立っていく今の子どもたちはどうでしょう。その子によって逞しくなれない場面もありました。それが、その子の“今”として受けとめられたり、なかったり、担任の先生もその子同様「葛藤の物語」の主役でした。
私は長年、地域の小学校の評議員をしています。私たちの何倍も厳しい環境で勤められていると実感し共感もしています。学校の中は「昔はよかった」の時代がそのまま居座っています。昔ながらの規則や規律が温存されています。

今と「昔」のねじれによって先生のなかには子どもに不条理な暴言を吐いたり意味のない規律を押し付けたり、それを保護者が我慢し、遂には我慢できずに爆発したり、悪循環が渦巻く現実を目の当たりにします。それ故に卒園する子どもたちには「自己愛をテコに逞しくあれ!」と願い、期待もしています。

学校教育の問題は国の役人が鍵を握っていますが、机上で整合性を図りながら文言づくりに励んでいるとしか思えないのが現在です。優生学を基調にしたMustづくめで具体性が乏しい。「昔」の考え方を一旦捨て去って、今の社会に適合したポジティブな教育観をつくり出す情熱や逞しさが無い(忖度意識に負ける財務省の書き換え問題然りです)。とどのつまり、人間に対する洞察が無い。そのせいで、第一線で子どもと接する先生たちは苦闘し若くしてリタイヤする比率(資料を見ました)があがっています。ほんとうに第一線は辛いです。

保育や幼児教育において、最近、ほんとうに大事にしたいな、と考えるのは、理屈抜きに面白い活動や経験を数多く重ねるということです。一斉保育であろうと異年齢保育であろうと、保育者の引っ張る力が強くても、それが面白いかどうか、そこを問いたいです。自分が参加して面白く感じた経験こそ、時を超えて逞しさに変容すると考えるからです。日々の生活で規律や規制が厳し過ぎると面白いと感じる事の質を落としてしまうと思います。

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今年度のユナタンは、これでひとくぎりにします。次年度は、すべてエピソードになります。リアルな子どもの姿から保育を見つめます。
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過日、管理職だけでなく全職員に配布して、音読しながら活用するマネジメントブック「糧」が出来ました。みなさんにも配布します。

2018年2月27日 火曜日

〔ユナタンDX-8〕 №39
~ 「無関心」と「ひとごと感覚」がつくりだした改定指針と解説書 ~

平成30年2月27日  片山喜章(理事長)

「保育所保育指針」や「認定こども園要領」が10年ぶりにこの4月から改定されます。10年に1度の改定のたびに常々訴えているのは「文言のすばらしさ」と「埋めようのない違和感」、そのギャップです。かつては「保育実践」と「指針の文言」をマッチさせてくださいとお願いしていました。子どもを直接保育する保育者にとって実践の指針になりえていないからです。「…しなければならない」「‥することが重要である」と硬い文章で書き連ねています。「それは違う!」という反駁ではなくて「それって具体的にどういう事?」という疑問が湧き出ます。そこが苦慮する所なのにその問いには「そこはそれぞれの園で工夫してください」という回答が返ってきます。我々第一線が無関心になって当然です。
今回の改定の3年くらい前から「改定するなら過去10年、どのように活用されてきたのか、ヒアリングやリサーチが必要」といくつかの紙面で訴えてきました。賛同も得ました。が、指針は大臣告示だからそんなシロモノではないという奇妙な正論をぶつけてきます。

昨今は、諦念の境地を超えて、なぜ、保育の最前線に適さない保育指針を作成するのか、役人や御用学者の思考の構造を考えるようになりました。IQの差とEQの差でしょうか。同時に、いま、まさに(3月6日に関西でキック・オフ)、法人内で保育と運営指針(日々の保育と運営の相補性を満たすオリジナル)をつくりださんとしているところです。
いわゆる「昭和の保育」や「平成の園運営」を凌駕し止揚する園文化の創造です。追い追い、お知らせします。これまで保育界ではこんな突っ込みがされていました。
【園として、どんな子どもに育ってほしいか】
それに対して、私たちは“よく考える子ども”とか“物怖じしない子ども”を標榜してきました。では、そのためにどんな過ごし方をするのか、そこがとっても難しいのです。
ある意味、職人技です。様々な事を子どもどうしで話し合ってわくわくしながら決めていく。この単純なことさえ第一線ではなかなかできない。そんな教育を受けて来なかったからです。保育の課題は「上意下達の画一主義に未だに縛られた大人社会のあり方」と連動しています。指針がそこに言及しないのは指針自体がこの旧社会の代弁者だからです。

“よく考える子ども”も“物怖じしない子ども”も先生の提案した活動が面白くなければ「面白くない」と訴えて、やめる。となると保育者にとっては厳しいものになります。そのかわり面白ければ興味を深めて“予定外”の活動に発展する。その予定外の活動をすばらしい保育と園全体で称賛する。でなければ保育者は成長しないし、保育や教育という社会的営みが衰退します。「マジメな子」を再生産する保育は避けたいものです。こんな大切な日本の保育の方向性について、指針はまったく語らない、語れないのです。
保育界では【この保育を通してどんな力が子どもについたのか】という突っ込みがあります。この設問自体、あり得ないのですがよくなされます。子どもって一体誰でしょう。
子どもは十人十色で1つの活動や経験の受け止め方も違います。ここに日本社会の「子ども集団を個性の集合体と見ないで1つの塊と捉える集団第一主義」が見え隠れします。

しかし、保育者集団は、時により事によって、個々がどんなふうに成長したのか保育者どうしで認めることができます。この互いに認め合う行為が、より良い保育と運営の原動力になります。なのに、園の実態を知らない役人や御用学者は『保育指針』を盾に各園の園長や保育者に紋切型で物申します。実にやり切れないです。保育士たちが最前線であり管理職は第一線です。学者は後方支援部隊で諸制度の作り手である役人は後方司令室、という保育実践の構造を再構築しないと、最前線で働く保育士の意欲は衰退するでしょう。

第一線に居る管理職にも諸々の葛藤があります。先日、関西のマナー研修で髪の色の問題(issue)がでました。当然「何色でもOK。緑や紫もグッド」です。管理職は「保護者からクレームが出る」と反論します。「聞き流せば良い」と私は返します。ピアスをしたり爪を長く伸ばしたりするのは安全上の理由で禁止します。かつてNHKは「長髪であるから」という理由でタイガース(沢田研二)やスパイダース(堺正章)を出演させませんでした。「マジメそう」を求め合うのが日本文化です。保育士に「校則まがいの規範を求めるのは良い保育環境と言えない」と指針は率先して語るべきです。そこで議論が起こり、賛否が生れ、コンセンサスを求めて語り合う、それが指針が果たす本来の役目(思考)でしょう。
2月22日に発表された「保育指針解説」は374ページに及びます。その最後の8行です。

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
施設長など職員の人事・配置を担当する立場の者は、研修に参加した
職員がそこで得た内容等を日々の保育に有効に生かすことができるよ
う、専門分野のリーダーに任命するなど、資質や能力、適性、経験等に
374             応じた人材配置を行うことが重要である。保育士等のキャリア形成の過
程で、研修等による専門性の向上と、それに伴う職位・職責の向上とが
併せて図られることは、保育士等が自らのキャリアパスについて見通し
をもって働き続ける上でも重要であり、ひいては保育所全体の保育実践
の質の向上にもつながるものである。』   ?????

厚労省のHP  保育所保育指針解説参照

幼稚園と違って、朝の7時から夜の7時(8時の園もあります)まで延々と保育時間が流れます。流れる時間のなかで子どもたちはそれぞれ活動します。それを保障しながら、どこで時間の切れ目を作って集まって、どのように効率的に周知作業をするのか、後方司令室(厚労省)にお尋ねしたいものです。すべては、私たち(みなさん)の無関心とひとごと感覚で指令を受け止めてきたことに由来しているのでしょう、が………。